真顔日記

上田啓太のブログ

俺はaikoで、aikoはかわいい

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aikoってかわいいですよね、と知人に言われた。そのような聴き方をしていなかったので驚いた。言われてみればたしかに、という感じだ。同時期にデビューした宇多田ヒカルや椎名林檎と比較したとき、aikoの存在は明らかにかわいさの方を向いている。その歌声はかわいく、その外見はかわいい。それがaiko。盲点になっていた。

そもそも私は、aikoがかわいいかどうかを考えていなかった。その理由は明確で、「俺はaikoだ」という聴き方をしていたからだろう。「俺はaikoだ」と「aikoはかわいい」が接続されてしまえば、「俺はかわいい」に帰結するしかない。それはもう、人間は死ぬ、ソクラテスは人間である、よってソクラテスは死ぬ、とでも言うようなもので、俺はかわいいという結論があっさり弾き出されてしまうのだが、私はその方向に進みたくない。自分で自分をかわいいと言うような男にはなりたくない。

そもそも自分がかわいいかと言えば、三日ほどヒゲ剃りをしないだけで顔は毛だらけになるし、慢性的な眼精疲労で目の下のクマは異様に濃いし、とてもかわいいとは言えないと思う。

私はaikoではあるが、かわいくはない。毛むくじゃらのaikoとして生きている。

だが、ここに自己欺瞞がある気もする。三日ほどヒゲ剃りをしないだけで、と条件を付け加えることで、話を逸らしている気もする。「おまえはかわいいのか?」という問いに対して、三日ほどヒゲ剃りしないだけで顔が毛だらけになるからかわいくない、と答える時、すでにウソがあるんじゃないか? 無意識のうちに、問いをずらしているんじゃないか?

俺という本来はかわいい存在が、ただヒゲの存在ゆえにかわいさを失なっている、という感覚。惜しい、ヒゲさえなければ最高にかわいかったのに、という感覚。

俺は全然かわいくない、と断言すればいいじゃないか。相手の目をしっかりと見て、俺は全然かわいくない、俺はかわいさから程遠いところにいる存在だ、と言えばいい。

毛むくじゃらであることが、自分のかわいさを傷付ける唯一の要因であり、外見の問題を捨象した時、そこにKawaiiの代名詞としての自分が誕生する、という感覚。Japanese cultureとしてのKawaiiを輸出したいなら、飛行機の貨物室にさっさと俺を詰め込め、という感覚。

俺はかわいいのか?

最近、このへんの問題を考えていて、ひとつの仮説に至ったのだが、石原さとみと私を比べた時、自分のかわいさに対する自信の揺るぎなさだけを見れば、私のほうが上なんじゃないか。

唐突に石原さとみが登場したが、これは世間的にかわいいとされている女の芸能界的代名詞ということで、たとえば橋本環奈や、吉岡里帆や、新垣結衣など、その他さまざまな芸能人を当てはめてもらってもいい。この人たちは世間的にかわいいと評されているわけだが、どれだけかわいいと言われようが、それが外見と結びついている以上、気軽にブスじゃん、と言ってしまうことは可能である。

外見とは、社会と自己の接点であり、かわいさを外見と結びつけた時点で、必ず反論の余地を持ってしまう。また、評価には過去や未来といったものも導入できるために、今はかわいいけど昔はブスだったじゃん、とか、昔はかわいかったけど今はもうブスじゃん、と言ってしまうことも可能である。さらには、化粧じゃん、整形じゃん、アプリの加工じゃん、自撮り技術の洗練のたまものじゃん、など、いくらでも言うことは可能であり、実際、芸能人はネット上でそのように扱われている。

しかし私は、外部から隔絶された純粋に内的な世界において、私のことをかわいいと思っている。外部から切り離されているゆえに、自分の物理的外見もまた評価とは関係がなく、それどころか先述したように、私の外見はあからさまにかわいくない。

自分がかわいいかどうかを、他人の視線が錯綜する「世間」という土俵に上げない。

「自分がかわいいかどうかは自分で決める」と女子が言うとき、そこには闘争のプロセスがあると思う。それは闘争を経て勝ち取ったものだ。しかし私は闘争もヘチマもなく、俺がかわいいことを俺だけが知っている、と思っている。きみのかわいさを僕だけが知っている、ならば、それは恋愛の原型かもしれないが、俺のかわいさを俺だけが知っている、というのは何なのか? おまえはおまえに恋をしているのか?

女子にかわいいと言われてムッとする。これは男性心理によくある。向こうはホメ言葉として使っているが、自分は素直に受け入れられない。これはこれで理解できるし、経験もある。だが、そうしてムッとしながらも、自分すら普段は意識しない内的世界において、「かわいい俺」という自己イメージを維持している。

これこそが、必勝不敗の法則なんじゃないか。

背の低い女の歌声について

数年前、aikoと大森靖子の歌声しか身体が受け付けない時期があった。あれは興味深い現象だった。この二人は音楽性もキャリアもまったく違うが、唯一、背の低い女だという点で共通していた。

aikoを熱心に聴くようになった時、自分の中に背の低い女がいると感じた。はじめ、これを自分の中に女性性を発見したのだと解釈していた。男として生きてきた自分の中に、女がいたのだ、と。しかし、これは間違っていた。背の低い女という言葉のうち、重点が置かれるべきは「女」ではなく「背の低い」のほうだった。直感によって選ばれた言葉は怖ろしく、本人も気付かないうちに、問題の急所を探り当ててしまう。

私が自分の中に見つけたのは、子どもだった。

この時期、それまで熱心に聴いていたトムヨーク(レディオヘッド)と岸田繁(くるり)の歌声が一時的に聴けなくなった。私はこの二人を青年的な歌声として認識していた。青年の世界には自分を圧倒する巨大なものがあり、それが社会や、国家や、資本主義といった形を取っている。そうした巨大なものに対峙した時のうめきに似たものが、青年の歌声には入り込む。それはどこか不満気であり、怒りのにじんだ声であり、あきらめの漂った声でもある。

青年にとって、怖ろしいものは自分の頭上に存在して、巨大なものとして明瞭な形を取っている。しかし子どもにとって、怖ろしいものは粒子のように目に見えない形で自分の周囲に偏在している。真夜中にひとりで森の奥にいるように、そこには恐怖の予感だけがあり、その正体が分からない。

こうした歌声が生々しく記録されているのは、大森靖子のインディーズ時代の三枚(*)で、これは本当に不安の原液そのままという感じがする。これだけ不安定な感情を歌にのせて、それが作品として成立している例は、ちょっと他にない。

 

*『PINK』『魔法が使えないなら死にたい』『絶対少女』