真顔日記

上田啓太のブログ

フィクションを見る時だけ女になる男

f:id:premier_amour:20201002122143j:plain

Photo by Stefano Ghezzi on Unsplash

私は男として日々を暮らしているが、フィクションを見る時は、女になることが多い。たとえば、漫画『君に届け』を読むたびに、主人公の爽子に感情移入して、風早くんに恋をしている。『君と100回目の恋』という映画を観た時は、主人公の女に感情移入して、恋人役の坂口健太郎にときめいていた。そして、aikoの音楽を聴いている時の自分は完全にaikoである。

しかし日常で街を歩いている時は、かわいい女に自然と目がいく。かっこいい男は別に見ない。フィクションの中でだけ性別が逆転しているんだろうか。

『君に届け』は作品の仕組みとして、主人公の爽子にいちばん感情移入しやすいようにできていた。その心理がもっとも綿密に描かれているからだ。『君と100回目の恋』だとさらにあからさまで、あれは、坂口健太郎という存在にときめくために映画全体が設計されていたように思う。あの映画を観て坂口健太郎のほうに自然と感情移入する男がいたら、逆にすごいと思う。あのツンとした坂口健太郎に感情移入できるの、坂口健太郎だけじゃないか?

最近気づいたのだが、芸能人を見る時、私は男性芸能人の外見に対する評価のほうがずっと甘い。女性芸能人の外見はわりと厳しく見ている。そう簡単には受け入れねえぞ、という気負いがある。「たしかにまあ、かわいい/美人だと思うけど」というスタンス。「たしかにまあ、○○だと思うけど」という、何かを保留にするような、その口ぶりは何だ!

性的魅力に対する警戒心、ということだろうか。

男性芸能人がかっこいいことをしていれば、素直にポーッとなれるが、女性芸能人の場合、そこに勝手に駆引きの要素を見出している。どうせ芸能人なんだし、普通にポーッとなればいいんじゃないか、という気もするが。

しかし、「どうせ芸能人なんだし」という表現にも自己欺瞞を感じる。芸能=フィクション、としてみれば、「どうせフィクション(うそ)なんだし」と言う時の、フィクションであることを全身では認められていない感じ、「フィクションじゃなければよかったんだけど……」という欲望が尾を引いている感じ、未練たらたらの中途半端な雰囲気が、そこにはある。

こうした心理もまた、一種の防衛反応なんだろうか。

人生のある段階で、線引きをした気がする。記憶を探ると、十代の頃は女性芸能人に普通にポーッとなっていた。たとえば男子中学生の自分は、広末涼子にガチの恋をしていた。「まあ、かわいいとは思うけど」という余裕ぶったスタンスなど一切なかった。俺が広末と出会って結婚するか、太陽が爆発して地球が滅ぶか、選択肢は二つに一つだという切迫感があった。

当時の自分は、まだ女子と付き合ったことがなかった。これが意外に重要なことだったのかもしれない。日常に恋愛が生まれるということは、恋愛が生活になるということで、しかし、恋愛ほど生活に向かないものはない。

ひとつに、心理的駆け引きが純愛を殺すという点がある。しかし人は駆け引きを覚え、恋愛を複雑化させる。

同時に重要なのは、日常的に恋人とセックスをすることで、日常生活に妊娠の可能性が生まれたことだろうか。これが具体的には、避妊の意識となった。ここで、自分の肉体の持つ動物性、生殖によって子を作ろうとする持続的な力(性衝動)への自意識が日常化された。

性衝動というのは、その語感だけを見ると突発的で刹那的なものに見えるのだが、その本質はむしろ、土俵際の横綱のような異様なねばり強さにある。すなわち、持続性こそが性衝動なのだと今は感じる。そして、こうした性衝動が自分の中にあるものとして対象化された時、もはや素朴に好きだ嫌いだとは言っていられなくなる。「好き」の先には妊娠と出産があるからだ。

というところで、私はフィクションの中で女になって、男に恋をすることで、「純愛」を延命させたのか?

というか、自分にとって、純愛は妊娠を含まないのか?

俺のそば寝転んでる
お前の顔見て俺は息飲んでる
結婚なんて ほんまに分からん
けど欲しいお前との赤ちゃんBaby
こんな気分が運命って気がすんねん
大事にすんで
だから 一生一緒にいてくれや

三木道三『Lifetime Respect』

私はこうした歌詞がよく分からず、それが、この自我(上田の自我)を特徴付けていると思う。

というか、「俺のそば寝転んでるお前の顔見て俺は息飲んでる」は分かるし、「結婚なんてほんまに分からん」も分かるのだが、そこから「けど欲しいお前との赤ちゃんBaby」に飛ぶ瞬間が分からない。私も一応、女と長期間付き合ったことはあるのだが、「けど欲しいお前との赤ちゃんBaby」と思ったことはない。いや、口調が普段の自分と違いすぎて違和感があるとか、自分はこんなにフランクにBabyと言わないとか、そういうことではなく。

いや、意外と、そういうことなのか? 口調は精神のあらわれだとすれば、そこを無視しちゃだめなのか?

たまに、自分の中の「男」は関西弁なんじゃないかと思うことがある。私は関西出身ではないが、関西に住んでいた期間が長く、また地元も石川県で方言のイントネーションが西寄りなので、日常の発話は関西弁に近い。とりあえず、今書いている文章のようには喋らない。そして日常の発話と日常の作文の間に、かなり強い分裂がある。

ひとりのひとを愛するっていうのは
いったい何を求めることなんやろ
かわいさかやさしさか
それとも振り回されたいか
カッコつけんな
欲しがる前に己がちゃんとせな
おれはアホにもほどがある
だからおまえと いっしょにいたいんや

ウルフルズ『サムライソウル』

この曲でも、関西弁による「一緒にいたいんや」が語られる。この『サムライソウル』の歌詞はすごくよく分かるというか、自分の中の何かをヒットして、このところ執拗に聴いていた。

方言といっしょに、人間に対する愛情やら何やらを、まとめて放り捨てた気がする。そして、非人情の世界があらわれた。

aikoは関西人だが、歌詞は関西弁で語られない。カップリング曲の『舌打ち』で、「だって忘れたくないんやもん」という関西弁が出てくるが、これは非常に例外的なもので、基本的に標準語で歌われている。

最近、自分はなぜaikoのラブソングに惹かれたのかと考える。ラブソングを歌うアーティストなんかいくらでもいるわけで、女性のシンガーソングライターに絞り込んだって、まだまだ大量にいるはずだ。しかしaiko以外の歌手だと、ヒット曲で個別に好きなものはあっても、そのディスコグラフィの全体を網羅的に聴き込んでのめりこんでいくという強烈な体験は生まれなかった。これはaikoの歌詞が、いちばん観念的だったからじゃないだろうか。「あたしとあなた」として描写される世界は、日常的な関西弁の世界からはほど遠く、たとえば何も知らない人間がaikoの歌詞だけを文字として読んだ時、それを関西人の書いたものだと気づくだろうか。

十代後半から二十代にかけての、ラブソングに対する自分の記憶を辿ると、男性ミュージシャンでそれなりにグッときた曲はあった気がするが、しかしラブソングという言葉から今もパッと思い出せる印象的なものはむしろ、

誰かにラヴソング唄う
気なんかさらさらないぜ

BLANKEY JET CITY『ADVENTURE OF GOOFY』

という否定的な気分だったり、

愛って何?歌にして判るの?

くるり『ラブソング』

というパロディ化して茶化してみたくなる気分だったり、あとはもう、

くりかえされる諸行無常
よみがえる性的衝動

ZAZEN BOYSの歌詞全般

というような、味噌も糞もねえんだ、冷凍都市に男女の性欲がうごめいてるだけなんだ、それ以上の物は何もないんだ、みたいな世界観とか。

そういうふうに生きていけるだろう、それでとくに問題はないだろう、と思っていたはずが、三十歳の手前で、出会い頭のようにaikoに衝突した。何かをごまかして生きようとすると、未来のある時点で、過去の自分に復讐されるんだと思う。今の私は、十八歳の自分に復讐されているんだと思う。