真顔日記

上田啓太のブログ

aiko的なものとミスチル的なもの

深海

Mr.Children『深海』 - amazon.co.jp

自分がaikoについて書いた文章を読み返していて、この人は世界とaikoの区別が付いていないんじゃないかと感じた。これは良くない。私は世界とaikoの区別を付けている。私は正気である。

私はあらゆる物事にaikoを見出す一方で、そうして見出されたものを吟味して、aiko的ではないと判断することもある。世界はたしかにaiko的事象にあふれているが、万物をだらしなくaikoと認識することは許されない。aiko的なものは森羅万象へ際限なく拡散していく一方で、一点に凝集する厳密な物としても存在している。

また、こうして語られる「aiko的なもの」というのも私個人の感覚であり、極論してしまえば、aikoの歌詞だって常にaiko的であるわけではない。こうなってくると単なる異常者の発言にも思えてくるが、まあ、熱心なファンは大抵こういうことを言い始める気もします。そしてジョンレノンを狙撃したりする。気をつけなくては。

例外から考えるaiko

要するに、aikoについて考えるときに、例外から考えるアプローチもあるわけだ。たとえば『戻れない明日』という曲の冒頭に、私は例外的なaikoを見つける。

想い出は人を切なくさせる
それはあなただけじゃない

aiko『戻れない明日』

aikoは「あなた」という言葉を使い、その「あなた」は基本的に「あたしとあなた」の二者関係における「あなた」なのだが、この曲の冒頭は違ったふうに聞こえる。この「あなた」は「一般的な人々」への呼び掛けのように見える。言わば、不特定多数としての「あなた」である。

「想い出は人を切なくさせる」というのは一般論で、その一般論を受けて、「それはあなただけじゃない」とつながる。この時、「あなただけじゃない」という言葉の背後にあるのは、「あたしもそうである」というよりも、「だれもがそうである」というニュアンスではないか。「だれもが苦しみのなかで」や「みなそれぞれの道をゆく」といった方向性の歌詞である。

その意味で、この曲は「あたしとあなた」ではなく「あなたとみんな」の関係を語っているように聞こえる。

ただ、これはあくまでも冒頭の印象に限った話で、その後の歌詞を読んでみると、そこで展開される「あたし」と「あなた」の関係はaiko的なものだ。歌を聴くことは第一に耳で聴くことだから、あまり曲を聴きながら「歌詞の全体」を気にすることはない。それが、この勘違いを生んだのだろう。

とりあえず、aikoの歌詞の特徴は容易には一般性へと進まないところにあり、だからこそ私は『戻れない明日』の冒頭に例外的なものを感じ取ったのだと思う。これだけメジャーなアーティストでありながら、aikoの歌詞にどこか個人的な印象を受けるのは、「人は皆だれもが」という形で、社会全体を包もうとしないからじゃないか。

これはたとえば、Mr.Childrenの歌詞と比較してみると分かりやすくなる。

ミスチル的なものとは何か

あるがままの心で生きようと願うから
人はまた傷ついてゆく
知らぬ間に築いてた
自分らしさの檻の中で もがいてるなら
誰だってそう 僕だってそうなんだ

Mr.Children『名もなき詩』

私の中には「aiko的」と同じように「ミスチル的」という概念も存在しているのだが、その意味で、この歌詞は非常にミスチル的だと思う。「人はまた傷ついていく」と語られ、「誰だってそう」から「僕だってそう」とつながる。ミスチル的世界のポイントは、一般論と個人性の連結にあると言ってもよい。

似た構造を持ったミスチルの曲をもうひとつ見ておこう。同時期に発表された『シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~』である。「世界中の誰もが業の深い生命体」という歌詞も非常にミスチル的だが、さらにミスチル的なのは、最初のサビで次のように「人は」と歌われた歌詞が、

何遍も恋の辛さを味わったって
不思議なくらい人はまた恋に落ちてく

曲の後半では同じメロディのまま、「僕は」と言い換えられるところ。

何遍も恋の苦さを味わったって
不気味なくらい僕は今恋に落ちてく

このように、ミスチル桜井和寿は頻繁に視点を上昇させて、「社会」や「人類」へ飛び上がるのだが、その上で「僕」に戻ってくる。この「僕」は桜井個人であると同時に、リスナーの一人一人でもあるのだろう。

こうしたジャンプアップから着地に至る芸を「ミスチル的」とするならば、aikoの歌詞の特徴は、こうした視点の上昇がほとんどないことにある。

もっとも、aikoにも「上昇」という概念はあるのだが、面白いのは、aikoが飛び上がる時は一気に宇宙まで行ってしまうことだ。ミスチルが重力によって社会に縛り付けられているとすれば、aikoが空に舞い上がった場合、「社会」や「人類」をスッ飛ばして、あっさりと大気圏を突き抜けてしまう。

有名なところでは『花火』の歌詞だろうが、

夏の星座にぶらさがって
上から花火を見下ろして
こんなに好きなんです 仕方ないんです

aiko『花火』

むしろ私の印象に残っているのは、四枚目のアルバム『秋 そばにいるよ』の最後の三曲、『それだけ』『木星』『心に乙女』の流れだろうか。私は勝手にこれを「宇宙三部作」と呼んでいるのだが、非常に静かな三曲が並んでアルバムは終わり、ここでは夜が深まってゆくにつれて、宇宙に「あたし」と「あなた」しかいない感覚に進んでいく。

歌声の支える広さ

音楽において、歌詞は歌声と音によって支えられる。それぞれの歌手の個性は、そうして支えられるものの広さにあるとしてもよい。もちろん広ければいいとか、狭いほうがいいということではなく、それぞれの歌手の性質の問題であり、そして私の知るかぎり、いちばん「広い」曲は、美空ひばりの最晩年の曲。

雨 潸々と この身に落ちて
わずかばかりの運の悪さを恨んだりして
人は哀しい 哀しいものですね
それでも過去達は 優しく睫毛に憩う
人生って 不思議なものですね

美空ひばり『愛燦々』

当然、主語は「人」になる。それに続く「人生って不思議なものですね」という歌詞は一般性の極みのような言葉で、ともすれば説得力を持たずに霧消していく言葉になりそうだが、その途方もない広さを、美空ひばりの歌声が支えている。

これはちょっと化け物のような広さで、こうした歌声が成立した時代というのは一体何なんだろうと思う。昭和という時代にほとんど実感のない自分としては。

余談

余談だが、aikoの『カケラを残す』という曲は、一般論の羅列から唐突にaiko的話法に切り替わる瞬間が面白い。

虚しい夜はいつか終わる
悲しい傷も必ず癒える
強いだけの力はいらない
愛には誰も勝てない
傷付いても傷付ける必要はない
仕方ないでしょ
あなたの傍にいたいんだもん

aiko『カケラを残す』

格言めいたものを並べてから、最後に口語で引っくり返すところが好きなんですけど。

「傷付いても傷付ける必要はない(ガンジー)」とか、「愛には誰も勝てない(マザーテレサ)」みたいに、偉人の名前を補完したくなる言葉が並んでいるから、最後も同じリズムで「仕方ないでしょ あなたの傍にいたいんだもん(ガンジー)」という感じで聴いてしまう。えっ、ガンジーかわいい、みたいな。