真顔日記

上田啓太のブログ

もう漢字は書けない

「ほうふつ?」
「ひげみたいな字が二個並んでるんだよ」
「それはわかる。しかし、それじゃあ書けない」

友人はスマートフォンを取り出すと、適当な画面に入力して私に見せてくれた。〈髣髴〉。ひげみたいな字であって、ひげではなかった。それは確認したが、ひげという漢字もまた明確には浮かんでいなかった。友人はふたたび指を動かした。〈髭〉。

これですっきりした。しかし五分後には、髣髴の二文字をふたたび忘れていることだろう。最初から覚える気などないからだ。指を動かさねば、身体に染み込ませねば、漢字を書けるようにはならない。読めるようになるだけだ。

私はもう、漢字など百も書けない気がする。さすがにそれは言いすぎだろうか。しかし私にとって、もはや漢字は入力して変換するものだ。変換とは面白い表現だ。

指では書くことのできない文字を、平気で打ち込む快感がある。デバイスの変換機能にすべてを委ね、自分の脳は一切使わない。ちゅうちょ、もうろく、ばら。躊躇、耄碌、薔薇。鉛筆を渡されたら、ろくに書けもしないのに。しかし即座に入力できる。詐欺師のような手口じゃないか。こんなものは、フォントサイズを小さくして、凝縮された黒い塊に変えてしまおう。

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もはや私は、自分の書くことができる漢字を思い出せない。コンピュータに慣れすぎた。漢字ドリルの思い出を遠く離れ、もはや日常で鉛筆を持つことはなく、シャープペンシルですら古代の道具のような新鮮で耳慣れない響きを持っている。親指で頭をノックして芯を出してゆくシャープペンシルの仕組み。今では、すべてが懐かしい。

昔、ロケット鉛筆と呼ばれる道具を使っていた。ネーミングが大げさじゃないか。宇宙に飛び立つわけでもないくせに、ロケットを名乗るのは誇大妄想だよ。

鉛筆けずりも長く使っていない。電動の鉛筆けずりは面白かった。あれは身近なテクノロジーだった。買ってもらった朝、小学生の自分はベッドの上で飛びはねていた。鉛筆けずりの脇腹に赤いスポーツカーの絵が描かれていた。おそるおそる鉛筆を挿入すると自動で削りはじめる。鉛筆を機械に喰わせていく感覚だ。しかし短すぎる鉛筆は危険だ。自分の指まで喰われる不安がある。私は勝手に怯えていた。

鉛筆を挿入すると鉛筆けずりはぶるぶる震えた。プラスチック・ケースの中に次々と木屑がたまっていく。定期的にそれを捨てていた。捨てる時、もわっと木のにおいがした。道具の記憶は色あせない。

パソコンのキーボードで文字を打ちこむ行為もまた未来には古くなるのだろう。スマートフォンで小説を書く人間もすでに存在しているようだ。それどころか、音声入力を利用して文章を書く人間まで出てきているらしい。口述筆記じゃないか。文豪の晩年じゃないか。

昭和期、病床の文豪はもはや筆を取ることがむずかしく、妻や弟子に筆記をさせた。現代ではスマートフォンだ。文章を書く人間として、他人事でもいられない。よぼよぼの自分がスマートフォンに語りかける未来が見える。あるいはその頃には、脳から直接書けるようになっているのか。思念による執筆か。

とりあえず、漢字は書くものから変換するものに変わっている。今でも書ける漢字を考えてみる。犬。これは書けるだろう。大便。これも書けるだろう。春。これも書けるだろう。意外と書けるものは多い。まだまだ耄碌していない。

耄碌、これはもちろん、一切書けない。