真顔日記

上田啓太のブログ

一人の男がaikoという沼に沈むまで

熱心に音楽を聴きはじめたのは中学生の頃だった。以来、さまざまなミュージシャンと勝手に関係を結んでは勝手に離れることをくりかえしてきたが、その経験から言えば、あるミュージシャンに深くハマる場合、その出会いは激烈でないことが多い。

たとえば、はじめて知るミュージシャンの曲にガツンとやられた場合、意外とその一発目のガツンがピークであることが多い。これは漫画家や小説家にも言える。雷に撃たれるような出会いよりも、泥沼に沈んでいくような関係のほうが長続きするとでも言えばいいか。

ということで、aikoとの出会いを思い出せないわけである。気づけばaikoばかり聴いていた。aikoという沼に沈んでいた。aikoという沼から私の手だけが出ている。肩までどっぷりどころの騒ぎではない。頭まで沈んでいる。沼から出ているのは右手だけ。それが私の現状である。

いかにして、私はaikoという沼に沈んだか。

認知と無関心の時代

まずは認知の時代があった。1998年、aikoデビュー。当時の私は高校生だった。いちばん熱心にオリコンチャートを追っていた時期だった。そのため、この時期にヒットした曲はアーティスト関係なしに覚えている。aikoならば『花火』や『カブトムシ』をMDに入れて聴いていた記憶がある(MDという言葉の異常な懐かしさ)。

良い曲だとは思っているが、この頃はヒットチャートの二曲に一曲は良い曲だと思っている。まだポップスの定型に慣れていなかったからだろう。すべてが新鮮だった。

そして無関心の時代がやってきた。大学入学を境にヒットチャートを追わなくなり、かわりに雑誌やネットで音楽情報を仕入れるようになった。それはチャート音楽から離れていく過程だったと言ってもいい。そして2009年頃、音楽を聴くという行為そのものに飽きた。ほとんど新譜を追わなくなった。日常における音楽の存在感がガクンと落ちた。

それはYoutubeが浸透してきた時期でもあった。私はネットの動画にある昭和のヒット曲や洋楽のヒット曲を集めたものを気まぐれで聴いていた。「ヒット曲」にふたたび戻ってきたとも言える。そこにaikoの曲をまとめたものもあった。へえ、aikoかあ、くらいの感じで聴いた。今思えば、これは沼に足の指をちょんとつけた状態だった。

そして、冗談の時代がやってきた。

冗談の時代

冗談とは心の裏口である。表から入れることのできないものをそっと入れる扉、それが冗談なのだ。私はaikoにたいする自分の扱いからそれを知った。

私の無意識はaikoを聴くことを強く求めていた。同時に私は、aikoという沼に沈んでしまうことを怖れていた。それは自分の中に住む背の低い女の存在を認めることであり、男として過ごしてきた自分の半生と齟齬をきたすことだった。だから私はaikoを冗談で聴いていると解釈した。冗談という通行パスを渡し、心の裏口からそっとaikoを侵入させたのだ。

のどぼとけの飛び出した自分が、すね毛の生えている自分が、「aikoは俺の気持ちを歌ってくれている!」とさけぶ。元気いっぱいに、人工的なハイテンションで、わざとらしいほどハキハキとした口調で言う。そこから生まれるギャップで、小さな笑いを作る。そうやって、自分のなかの背の低い女を冗談にする。私はaikoを聴きながら、aikoを聴いている自分を茶化そうとしていた。

しかし、そんな時代はもう終わったのだ。

そして私は、aikoという沼に沈んだ。

沼となる表現者の特徴

aikoの沼っぽさは何か? あるいは一般化して、沼となる表現者の特徴は何か?

表現者にとって、沼よばわりは最高のほめことばである。稲妻のような衝撃を与えることは一瞬だ。それは作品と受け手の幸福な出会いである。いや、もっと言えば、作り手もまた作品と出会っているのだ。作り手・作品・受け手の三者が見事に出会った時、稲妻のような衝撃が走る。それはそれですばらしいことだ。

しかし長期的に付き合っていくためには、作り手は受け手を沼に沈めなくてはならない。人は普通にしていても色々なものに飽きていく。飽きるというのは自然な反応だ。沼のたとえで言うならば、人はほうっておいても沼からあがるのだ。

ミュージシャンで言うならば、沼的であることは隠れた名曲の多さにある。アルバム曲やカップリング曲にどれだけ魅力があるか。その意味で、aikoという人はアルバム曲に名曲が多いのはもちろんのこと、五十曲をこえるカップリングが異常に良い。

この三段構えが沼化のポイントだと思う。「シングル曲」と「アルバム曲」と「カップリング曲」。この順にアクセスしにくくなる。そこにコストを払ってアクセスした時、それに見当った魅力を感じられること。これが表現者を沼にする。なんとなくaikoの有名曲を知っているだけだった自分が、まずはベストアルバムを聴き、次に最新のアルバムを聴き、さらに過去のアルバムをさかのぼり、最後はカップリング曲聴きたさに古いシングルCDを漁ることになった。

当然、「好きな曲」はどんどん変わる。これが沼のしくみである。ひとつの曲に飽きてきたと感じたころには、別の曲の良さに気づいている。その曲に飽きてきたかと思えば、別の曲がダークホースとして登場している。その曲をしつこく聴いた頃、あらためてシングル曲のよさを再発見したりする。沼である。右足をあげたときには左足が沈み、左足をあげようとすれば右足が沈む。この曲に飽きればあの曲に沈み、あの曲に飽きればこの曲に沈む。その繰り返しの結果、最後には沼から右手だけが出た状態になる。そこで発せられる言葉があるとすれば「俺はaikoだ」である。さらに沈めば「aiko」である。さらに沈めば、

「     」

沈黙である。その沈黙を埋めるようにaikoは流れる。言葉を失ってaikoだけが残る。私はaikoについて大量の文章を書いているように見えるかもしれないが、それは言葉にならない無数の瞬間とくらべれば塵芥のようなものにすぎない。私の文章を支えるのはaikoを静かに聴いていた膨大な時間だ。私は、それ以外の文章を信じない。