真顔日記

上田啓太のブログ

なぜ昨日の夕飯をすぐに思い出せないのか?

昨日の夜、何を食べたか?

突然そのように聞かれると、意外と思い出せないものである。実際自分も、こう問うてみると、脳はすぐに回答を出してくれない。昨日の夜に自分は何を食べたか。即答できない。サッと答えが出てこない。しばらく時間がかかる。記憶を探る必要がある。

これはボケというよりも、たんに日々の食事に関心がないからだろう。興味のないものは忘れる。脳の正常な機能である。興味のないものまで何でもかんでも覚えていれば、駅前を10分ほど歩くだけで、脳が爆発してしまう。入ってくる大量の会話や文字のすべてが完全に記憶されて、一生忘れることができないなら、脳に爆発以外の道は残されていない。勝手に忘れてくれる仕組みでよかった。

忘れていた記憶を思い出して号泣する。これまたドラマやマンガでよく見る光景だ。封じ込めていた記憶を思い出した時、ひとつのドラマはピークをむかえる。その記憶は常に心の奥底に身をひそめている。そして記憶はささやき続ける。忘れたとは言わせない。おれのことを思い出せ。しかし人は忘れたふりをする。記憶にフタをしてしまいこむ。むやみに不安にならないように、日々の生活を送るために。

昨日の夕飯を忘れるのは、これとは種類のちがうことだろう。昨日の夕飯を思い出そうとして、幼児期のトラウマでも思い出すかのように強烈な感情が噴出してくれば、おまえは昨日なにを食べたんだという話になる。カカッ、カッ、カツカレー……。

そうつぶやいて号泣する。

「ようやく気付いた。忘れていたことにしたかった。記憶を封印していた。カツカレーの存在を否認していた。まるでカツカレーなど食べていないかのように振るまって、封じこめたカツカレーの記憶の上に偽物の人格を構築して、なんとか必死で生きていた。しかし心の奥底では、おれはあの日のままずっと、止まった時間の中を生きていたのか……」

ほほをつたう涙。

ドラマティックなアホ。

実際の私はきのう、カツカレーを食べていない。それは確かだ。しかし、それじゃあ何を食べたのかといえば、まだ思い出せない。というか今はこうして文を書いているんだから思い出せないに決まっている。いったん手を止めなければならない。腕をくむ。眉間にしわを寄せる。昨日の夕飯を思い出すためのポーズである。そのまま停止。

数分が過ぎる。これもまた人生の一断片。

思い出した。昨日は午後三時にやよい軒でおろしハンバーグ定食を食べた。それから夜の九時頃に小腹がすいて、コンビニで買ってきた豚まんと、100円のシュークリームと、コーラ味の薄くて硬いグミ(商品名不明)を食べた。

思い出したことで判明したが、どれが昨日の夕飯なのか全然分からない。やよい軒のほうか? それとも夜九時の豚まんのほうか? こんなファジーな食事をすぐに思い出せるか。そもそも生活が破綻している。昨日の夕飯を覚えているかという問いは、生活の破綻していない人間に向けられたものだと判明した。朝めし昼めし晩めしを、だれもが明確に分けて食っていると思うな!

だれに怒っているのか、全然分からない。困った。かんしゃく持ちじゃないか。

私の住む町では、だれに怒っているのか分からない爺さんがたくさん歩いている。ずっと文句を言っている。独り言である。滑舌が悪い上に小声のため、発話の内容は分からない。ほとばしる怒りの波動だけが伝わってくる。色々な日に別々の場所で合計十五人ほど見た。わりとたくさんいる。なんという街に住んでいるんだ。十五人の怒れるじじいたち。反面教師にしなければいけない。十六人目になってしまう。