真顔日記

上田啓太のブログ

my 屁 , your 屁

ぐう、と腹が鳴った。これは僕の胃袋か?

ここは僕の部屋である。当然、これは僕の腹の音だ。考えるまでもない。しかし最近、腹の音が自分のものなのか、判断の付かないことが増えてきた。人体からは日常的にさまざまな音がする。胃袋の音。呼吸音。骨のきしみ。屁。それらをいちいち、自分の肉体から出た音なのか、他人の肉体から出た音なのか、判断するのはめんどくさいよ。どっちだっていいじゃないか、そんなもん。

しかし脳というのは、意外と馬鹿馬鹿しい機能を備えている。具体的には屁の区別である。これを脳は勝手に判断している。他人の屁のにおいは不快だが、自分の屁のにおいはそれほど不快ではない。むしろ少しの安心感がある。まったく、冗談のような機能じゃないか。しかし、よくできている。あっぱれ、と言いたくなる。非常に便利な機能である。人体のバージョンアップで、屁における自他の区別が実装された時は、ユーザーも大喝采だったことだろう。

たまにヒトは屁で揉める。おまえがしただろ。おれじゃねえ。鼻をつまんで大激論。屁の帰属先のなすりつけあい。そこで登場するのが屁の所有格。簡単な英語の復習だ。my 屁、your 屁、his 屁、her 屁。さらにオマケ的に復習すれば、our 屁、their 屁。

集団で屁をするな、馬鹿。

my 屁と your 屁は日常で使える。屁における激論はこの二つで足りる。your 屁 is so くさい。しかし our 屁が言葉として成立するためには、二メートル四方のプラスチック・ケースに屁をためる若者グループの登場を待たねばならないだろう。若者たちはケースを取り囲み誇らしげに言う。これが、おれたちの屁。おれたちの屁のすべてが、このプラスチック・ケースの中にある。池袋の夜、ラーメン屋の後の屁。渋谷午前五時、終わらないドンチャン騒ぎの合間合間の屁。our 屁 is とても precious。

若者たちはケースに屁をする際、自転車のタイヤに空気を入れる時の要領で、サッと栓を抜き急いで屁をして即閉じる。おれたちの屁が漏れないように。ガラが悪いようでいて、意外と繊細なのだ。しかし大人たちは理解を示さず、街に置かれたプラスチック・ケースを指差して言う。their 屁 is とても迷惑。

先日、私はイヤホンをして街を歩いていた。デパートのエレベーターに乗りこんだ。見知らぬ中年男性が同乗していた。エレベーターは上昇を始めた。しばらくして屁のにおいがした。しかしイヤホンのせいだろう。それが自分の屁なのか、同乗した中年の屁なのか判断が付かなかった。

外界の聴覚を遮断すると屁の自覚は薄れるものだ。自分の肛門付近に空気の微妙な動きはあったか? 普段の私は平均より屁を自覚する人間である。しかし今回は音楽に意識が向いていた。その結果、脳が迷っていた。あの時の感覚! 屁のにおいが安心と不快の間で宙ぶらりんになった、あの時のこと!

俺はこのにおいを不快だと思えばいいのか? それとも少しの落ち着きを感じればいいのか? 明らかに脳は迷っていた。そして私は、脳から解離した透明な意識の場所で、脳の仕事のバカバカしさを笑っていた。くだらんことで悩むな!

「屁の帰属先不明。快不快の結論を下すことができません」

これが脳のコメントアウト。まったく、生真面目に働くもんだよ。

屁はくさい、で終わりでいいじゃないか。

しかし私は、屁にこだわる。肛門にこだわる。糞便にこだわる。徹底的に思考する。そして、うんこで笑うことの向こう側へ突き抜ける。

見ろ、いまやうんこは、何ひとつ面白くない。

昔、自由意志に関する本を読んだ。喫茶店での読書だった。本の内容はいまいちピンとこないものだった。人間の自由意志の有無が問題になっていたが、それは自分にとって切実な問いではなかった。翻訳物だった。キリスト教的世界観が前提となっているんだろうか? 西欧人の書いた本がピンとこない時、私はすぐその結論に飛びつこうとする。

本を閉じて店を出た。帰り道で便意があった。うんこを我慢しながら家路を急いだ。この肛門の力はなんとなく「意志」という感じがすると思った。意志の根源は肛門の制御か? とすると、意志とは筋肉の緊張か? 筋肉の収縮には意志が絡むが、筋肉の弛緩に意志は絡まない。それゆえ、意志によってリラックスすることは難しい? 人間に自由意志はなく、限定された否定の意志だけがある?

呼吸は意志ではないが、呼吸を止めることは意志である。そして呼吸を長く止めることはできない。その意味で、意志は限定されたものだ。運動を続ける肉体に対し、一時的に介入すること。それが意志の力か? あるいは日常的に言われる「意志」は、長期的な人生計画と関わっている? しかし私にはもう、肉体の刹那的な収縮と弛緩が日々のすべてだ。