真顔日記

上田啓太のブログ

もこみもこみち

僕はスターバックスの窓際の席に陣取って、店内の様子を眺めている。たくさんの幽霊がいる。店員の肩には幽霊の腕が絡み付いている。入口近くの客の胴体からは血まみれの顔が飛び出している。丸テーブルの下にうずくまる悲しそうな顔の幽霊もいる。しかし誰も気付いていない。店内は平和そのものだ。みなそれぞれの作業に没頭している。あるいは散漫な会話。

労働、性愛、病気。雑談の三大テーマ。

たまに、ガラスごしに外をぼんやり眺めている客がいる。それだ。それがいちばん幽霊の発見に適している。幽霊は意識のすきまにあらわれる。何かに集中していちゃあ、だめだ。意識が透明に近付けば、幽霊なんてものは飽きるほど見ることができる。ぬはははははは。

隣席のおじさんの笑い声が耳に入った。特徴的な笑い方だ。この中年二人組は先ほどから午後二時のスターバックスに似合わない下品な会話をしていた。具体的には、金銭を利用して女体にふれる方法について。おじさんというのは、本当に女体が好きな生きものだ。

幽霊には飽きた。外出のたびに数十体と見ていれば、幽霊も通行人と大差がなくなる。血まみれの顔にあわてるのも最初のうちだけだ。おどろおどろしくも何ともない。事故にあえば血まみれになる。そして未練にかられて化けて出る。意外性がない。幽霊の発生はベルトコンベアと同じだ。未練を残して突然死。流れ作業のように恨めしや。くだらない。結局は幽霊の血も赤いのだし、僕たちと同じだ。

今の僕が驚くとすれば何だろう? 駅前で妖怪でも見かければ驚くだろうか?

人生で一度、カッパを見たことがある。駅前の坂道で尻子玉を落としてしまい、転がっていくのを慌てて追いかけていた。まぬけなカッパだった。あの尻子玉は無事に拾えたのだろうか。僕はカッパの甲羅の深緑に好感を覚えた。しかし頭の皿を丸出しにしているのはいただけない。割れると死んでしまうほど重要な部位なのに、防具ひとつ付けず外気にさらしている。知恵が足りない。少なくとも頭巾をかぶるべきだろう。

しかしカッパの肉体は貧弱なように見えて、意外と屈強にできており、相当の筋肉を保持していることが見て取れた。日々の水泳の成果だろう。だてに水辺に住んでいない。日常の要求する筋肉を身に付けている。それこそが理想的な筋肉だ。僕はあこがれる。しかしカッパの体型にまであこがれるとは、虚弱の末路もあわれなものだ。

駅前のゴールドジムに通うことにしよう?

脳からの突然の提案に、僕はどう答えればいいのか分からない。脳というのは日常的にさまざまな提案をしてくるものだ。観察していると分かる。脳は他人なのだ。勝手に記憶を蓄積し、勝手に思念を生んでいる。頼んだ覚えはまったくない。胃袋が勝手に働くように、脳は勝手に機能する。ヘイ、Siri なんて言ってる場合じゃないのだ。人間の脳自体、Siri のようなものなのだから。しかし人類は、脳のオモチャを作って浮かれている。不思議なことだ。人類の不可思議を数えていけば、七不思議じゃあ、とても足りない。

三千世界に、不可思議のみが充満す。

それがこの世界の本当の姿だというのに。

僕は一度も幽霊を見たことがない。カッパを見た話も嘘。僕に超常的なものを見る力はない。だから僕の視界に入るのは、人間、動物、そして無数の物質のみ。

しかし幽霊のことは頻繁に考える。妖怪のことも考える。幽霊に強く惹かれるのは、それが死と結びついているからか? あるいは間主観性のほつれ? 後者だろう。幽霊という概念のポイントは死ではない。認識の問題として幽霊をとらえなおすべきだ。

妖怪はむしろ娯楽として存在している。カッパ、ぬりかべ、いったんもめん。垢なめ、こなきじじい、砂かけばばあ。どの妖怪も、練りに練った大喜利の回答みたいな見た目をしていやがる。日本人の想像力のオールタイムベスト。それが妖怪なのだ。

幽霊は哲学で、妖怪は娯楽。なんと勝手な二分法。