真顔日記

上田啓太のブログ

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寄稿:ドラゴンボールの世界は芸能界に似ている - マンバ通信

根本的なかんちがい

小学生のとき、一人のクラスメイトがランドセルを忘れて登校してきた。なにも背負わずに教室に入ってきて、みんなに指摘され、あーっ!と言っていた。当然、その日はいじり倒されていた。私もゲラゲラ笑っていた。

しかし高校生の冬、私は制服を着るのを忘れて学校に行った。ズボンは替えていたのだが、教室でコートを脱ぐと、上半身はパジャマのままだったのである。寝ぼけまなこで着替えた結果だった。当然、いじり倒された。

あの時は、職員室の電話を借りて家に連絡し、母親に学校まで制服を持ってきてもらった。制服を忘れるだけでも恥ずかしいのに、学校に母親まで来てしまう。男子高校生にとって、これはとてつもない恥ずかしさである。カフカの小説の一文を借りるならば、「恥辱だけが生き残るように思われた」という感じ。たしかに、みんなの前で母親から制服を受け取ったとき、恥辱だけが生き残っていた。他のすべては死滅したなかで。

こうした経験のせいかは知らないが、自分はなにか根本的なかんちがいをしており、そのことに気づかないまま行動しているのではないか、という不安が消えない。自分の中にある慢性的な不安感は、このあたりに根を持っているのだろう。

たまに、街を歩いているときにふっと心配になって、股間に手をやる。ちんぽが出てないか不安になるのである。過去に出ていたことはない。しかし、ふっと不安になる。部屋に鍵をかけたか、ふと不安になるように、自分が衣類をしっかりと身に付けているか、性器をしまい忘れてはいないかを気にする。

こんなものは、ほとんど笑いばなしの領域に入っていて、自分でも理屈では笑いばなしになると分かるのだが、街角で股間を確認するときの自分は、べつにウケを狙っているわけではない(だれにウケるというのか)。

おそらく私は、社会のルールを肉体化する機能が通常の人間より弱く、現在の社会ルールにふさわしい行動を取ることができているのか、いちいち確認しようとする。ルールを言語化して記憶しようとするため、いつまでも頭にとどまってしまい、首から下になじんでいかない。その極端なものが、街を歩いているときに性器の露出を確認する行為としてあらわれている。

これは、たとえるならば、サッカーをするときに、いちいちルールを確認するようなもの。このボールを手でさわってはいけない、あそこのゴールに入れなくてはいけない、こちらのゴールも形は同じだが入れてはいけない、同じ服を着ている人は味方だ、違う服を着ている人は敵だ、どちらでもない人は審判だ、まわりの人たちは観客と呼ばれる。われわれを熱心に見ることが楽しいらしい……。

自分は何かかんちがいをしているのではないか、という感覚は、世界の認識に緊張感を与える。しかし、ランドセルや制服を忘れることは、あくまでも学校という環境内でのかんちがいである。性器の露出もまた公共空間での話にすぎない。学校とは関係のない場に身を置くようになったいま、私は制服もランドセルも身に付けないし、銭湯という場においては、周囲に知らない人間がどれだけいようが、私は見事に性器を露出する。

もっと根本的なかんちがいがあるのだ。そして人間は、そのことに気づかないまま、日々の暮らしを営んでいる。その意味において、人間は性器をまるだしにしたまま、気づかずに街中を歩き回っているようなものじゃないのか。