真顔日記

上田啓太のブログ

映画『犬鳴村』

映画『犬鳴村』をみた。序盤から怪異の大盤ぶるまいで面白かった。惜しみなく幽霊が登場する。カメラを振ることが幽霊登場の合図だ。しかし印象に残ったのは意外と幽霊そのものではなく、不良少年たちが電話ボックスの中で溺死する場面や、発狂した女がわらべうたを口ずさみながらジョボジョボと放尿して歩き去ってゆく場面。

映画の後半、主人公が車に乗って旧犬鳴トンネルから逃げ出すのだが、序盤に死んだ者たちが霊となって後を追いかけてくる。バックミラーに映っていた死人たちは、画面が切り替わるとすでに車内に入り込んでいて、助手席と後部座席から主人公を見つめている。この場面は笑ってしまった。一人一席として、律儀に座っていたからか。こうなってくると、助手席の幽霊がシートベルトをしているかが気になりはじめる。

実際に見えてしまった幽霊が、どことなくアホらしさを漂わせてしまうのは興味深い。見えないのに存在していることが幽霊の本質だからか。手持ちカメラのぶれた映像に映り込む幽霊は怖いのだけど、固定されたカメラの向こうにきっちり映りこんだ時、なんだかアホらしく見えてくる。しかし、二時間のホラー映画で一度も幽霊が見えなければ、それはそれで不満を持ちそうだし、観客としての自分はわがままだな。

私的には、見えることより聴こえることのほうが怖いな。狂気は耳から来る。

映画が終わると深夜だった。ホラー映画をみたあとは、しばらく少しの物音にも怯える。床のきしむ音、外のしげみのゆれる音。なんだかんだで、しっかりと恐怖を植え付けられている。感覚過敏というよりは、小さな音に対する意味づけ作用が強くなっているようだ。ささいな音は日常でも常に聴こえているのだが、普段はそれに意味づけすることなく、無視していることも知らないままに無視している。

アウトロとイントロ

気温低下。外は雨。部屋着を長そでに変更した。午後、このあいだのコンビニ傘を持って外出。新品のコンビニ傘は美しい。数日前と同じ場所に同じネジが落ちていた。雨に濡れて水滴をつけていた。こうして錆びてゆくのだろう。

大通りに出た。今日はかき氷屋の前に行列ができていない。暑い日には冷たい氷が売れるが、冷たい雨の降る午後は売れない。商売の原初といった感じだ。すれ違った男子大学生のTシャツに DANGER と書かれていた。連れている彼女は腰骨の本当の位置がわからなくなる長いスカートを履いていた。

コンビニで100円コーヒーを購入。マシンの前で抽出を待つ。隣のマシンでは中年男性が時間をかけて四つのフラッペを順番にひとつずつ作成していた。雨の日に? 寒いのに? 差し入れか? こうした思念を余計なお世話という。

帰宅後、音楽を適当にシャッフル再生。無関係な二曲のアウトロとイントロがきれいにつながったから、今日はいい日になる。

エヴァと杉松

午前十一時起床。夜に短い散歩をした。涼しくなっている。この夜風を待っていた。

この数日で、エヴァンゲリオンの新劇場版四部作を一気にみた。世代的には通っていてもおかしくないのだが、まったくみていなかった。みてみると面白かった。同時に、最後までみても疑問符が大量に残ったままだった。だれかと語り合いたくなる作品だということがよく分かった。状況に関する説明がものすごく少ないのだが、映像の吸引力は異様に高いため、必死で物語に食らいついていきたくなる。

あわてて杉松に電話した。杉松は最初のテレビシリーズをリアルタイムでみていて、その後の旧劇場版、新劇場版の序、破、Q、さらにシンエヴァまで、すべて公開時に映画館に行っている。私が杉松の家に住みついていた頃、ちょうどQが公開されて、会社の友だちとみにいくんだとキャッキャしていたのも覚えている。新劇場版四部作を一気にみたことを報告した。

「まあ、ほんとはテレビシリーズから順を追ってみるべきなんだけどね」

開口一番、そんなふうにカマされた。

その後、質疑応答。物語上の設定について、ウィキペディアなどで個人的に補完した情報までふくめて、この解釈で合っているのかと色々たずねた。「わたし庵野じゃないから知らない」と連発された。結局、謎がたくさん残ったままシンエヴァが終ってしまった気がするんだが、そのへんはどうなのか、と聞いてみると、

「こちとらQから八年待たされてんだ!」

と、べらんめえ口調で絶叫された。

「アマプラで一気に最後までみた奴とは違うんだよ! とにかく無事に終ったことに拍手なんだよ! 友だちとQみた後の帰り道、お通夜みたいだったからね! 無言でとぼとぼ歩いてたからね! そっから八年だよ! 時間の重みを実感してよ! こまかいことでゴタゴタ言うんじゃないよ!」

ゴタゴタ言うのはやめよう、と思った。

とりあえず、近いうちにもう一度みてみる。

その後、雑談に流れた。最近の若手女優の話題になったが、二人とも詳しくないため、「永野芽郁という子がおんねん」「おるなあ」「おんねん」「おるなあ」「おんねん」「おるなあ」と、まったく情報量の増えていかないトークが展開された。中年期をむかえた人間が旬の芸能人の話題をするものではない。何も足されていかない。トークが雪だるま式にふくらんでいかない。坂道をコロコロ転がりながら、雪玉はいつまでも小さなまま。ネコの近況をきいて寝た。

経過報告

日記らしい日記を書きはじめて、一週間とすこしが経過した。これはこれで面白い。その日認識したものに、さっと最低限の手を加えて文章にしていく。当たり前に作る日々の料理といった感じだ。一回の字数は500字前後に落ち着きそうだが、今後どうなるか。

とりあえず、日常的に作文をしてそれを公開する、公に開く、公共の場に置いていくことは、精神の健康によいと感じる。自分の健康のためにもがんばろう。

もっとも、昨日の日記で突発的にキンタマの話をしてしまったため、キンタマをさっと料理して公共の場に出すなよ、という話にもなるのだが。公に向けてジッパーを開くな。

午後に外出。川べりの道を散歩した。向こうから歩いてきた初老の男が右手にネコじゃらしを持っていた。しわの刻まれた険しい顔だちと、ぷらぷら揺れるネコじゃらしのギャップに心がなごんだ。ネコを飼っているのか、孫にあげるのか、それとも純粋にネコじゃらしという植物を偏愛しているのか。謎を抱えたまま無言ですれ違った。

すこし歩くと草むらにネコじゃらしが群生していた。とりあえず入手元は判明した。ネコじゃらしは風に吹かれて揺れていた。その動きを見つめていても、とくに私の身体は反応しなかった。反射的に右手を出してしまうことがない。私はネコではないのだろう。

一本引き抜いて散歩を再開した。しかし、すぐに持てあまして草むらに置いた。川べりの道を歩くことは好きだ。ネコじゃらしを握りしめた老人がいる。他に認識したものは、川をおよぐカルガモのくちばしの黄色。

夏の風はいやらしい

夏の風はいやらしい。そよそよ吹かれて困ってしまう。真夏の自分が薄着だからだ。部屋着のままでコンビニに行く。ヘインズの肌着にユニクロのハーフパンツ、そして足元にはサンダルだ。外気にふれる肌面積が多いぶん、風の感触も強烈になる。クセになるくすぐったさだ。このデリケートなふれかたは、人間の手のひらじゃ絶対に再現できない。

服を着てこれなら、すっぱだかで外を歩くと、どうなってしまうんだろう。身体で感じられる風の限界値を知りたいが、しかし、全裸で風を浴びたかったというのは、交番で釈明するには詩的にすぎるな。

金玉を手のひらで支えるように持ち上げて、警官に詰め寄る。この子はまだ一度も本物の風を浴びたことがないんです。かわいそうな子だと思いませんか。この泣き落としでいけるか? ずっと狭い布の中に閉じこめられて、夏の風を知ることもなく、夏の光の美しさを知ることもない。あなたには分からないでしょうね。外気にふれることを禁じられた金玉の孤独が!

この戦法でいけるか?(駄目)

ミミズの死にざまは常に悲惨

朝九時起床。明快な残暑。ここまで明快だと文句をつける気にもならない。冷房に頼る。

柴田聡子『がんばれ!メロディー』をきいた。2017年の『愛の休日』がすごく良くて、これはその次のアルバム。前作もそうだったが、不思議と情報量の多い音楽だ。難解な音楽では全然ないのだけど、音も声も、ちょこまかと落ち着きのない子どものように動き回っていて面白い。あと、この人は言葉の選びかたがいちいち良いな。

午後にすこし外出。すぐに汗だく。電柱の支線にオニヤンマがとまっていた。そのサイズが子どもの頃より小さく感じられたのは、上田が巨大化したからか。ネジが一本、路上にナット付きで落ちていた。どこかにあるネジを失くしたネジ穴のことを考えた。

十字路に出ると、初心者マークを貼り付けた自動車の運転手が不安そうに左右を何度も確認していた。大通りに出て横断歩道を渡った。大学病院前の遊歩道で、ミミズがちぎれて死んでいた。たくさんのアリが集まっていた。アリにとっては、突然近所に全品無料のフードコートができたようなもの。そりゃ繁盛する。

すこし歩くと、今度は太陽の光に照らされてカラカラに干からびたミミズの死骸があった。幸せそうに死んでいるミミズを人生で一度も見かけたことがない。彼等にチューブ状の棺おけを用意してやるべきだ。

川向こうのスタバ

午前八時起床。いやな湿度の日。今日は運動を兼ねて川向こうのスタバに行くと決めていた。徒歩三十分の距離にある。肉体に汗がたまっている。それが流れ出すきっかけを与えるために、習慣として長距離を歩く。私は水門を開くように運動をする。

なんとなく詩的な雰囲気にしてみたが、現実にはバカが汗だくになっているだけだ。ものは言いよう。

スタバ到着。アイスコーヒーのトールサイズを注文。しばらく店内をながめる。まだ午前中なのでそれほど客はいない。マスクをした子どもの白くて太い脚。

作文と読書で三時間。種田山頭火の日記(『種田山頭火作品集』収録)と仲正昌樹『〈宗教化〉する現代思想』を交互に読む。テイストのちがうものを同時進行で読むことで、両方に飽きにくくなる効果がある。おかずとごはんの理論。

疲れて顔をあげると窓の外は雨。天気予報で午後から降ることは知っていた。しかし傘を持ってこなかった。今日は夜までずっと雨なのだった。店を出て近くのコンビニにかけこむ。600円でビニール傘を購入。ムダな出費。愚かさの代償に金を出す。また一本、傘立てに似たような見た目のビニール傘が並ぶことになる。

新品の傘をさして帰路。600円でびしょぬれにならない権利を買った。家に着くまでの三十分間、やさしくささやきかけるような淡い小雨がねばり強く続いた。ほとんど音もしないような雨だった。どうせなら叩きつけるように降ってくれ。

麻酔とお前があればいい

散歩。近所の温泉の煙突からもくもくと黒い煙が出ていて、本日の風向きを知らされた。すこし歩いて酒造工場の前に出た。酒びんを入れるケースが建物の前に大量に積み上げられていた。この工場が出す音は、いかにもファクトリーという感じがして好きだ。

小さなかき氷屋の前に、たくさんの美大生が列を作っていた。このかき氷屋には入ったことがない。夏が終わる前に行ってみるべきか。その冷たさに私の歯ぐきは耐えられるのか。だいたい自分には、お祭り以外でかき氷を食べるという発想がない!

帰宅。ラルクの『ray』を聴きかえした。のっけからハイドが「麻酔とお前があればいい」と歌っていて、まったくこの人には敵わないと思った。なんちゅうデカダンスな口説き文句なんだ。新郎のプロポーズの言葉は「麻酔とお前があればいい」でした。ひどく退廃的な新婚夫婦。ハネムーンで世界中の廃墟をめぐる。

ラルクアンシエルの『ark』と『ray』には、高校一年生の夏休みが氷づけにされている。聴くたびに解凍される。人生は輪切りになって保存されている。

カネモ

コンビニで100円のアイスコーヒーを購入。マシンの前で抽出を待つあいだ、レジに立つ店員をぼんやりながめる。髪を茶色に染めた中年の女で、つむじ付近でかつおぶしのように数本の毛が揺れていた。アホ毛という言葉をひさしぶりに思い出した。中学生の頃、同級生の女子がよく口にしていた。方言だったのかは分からない。

塾講師をしていた頃、生徒の女の子が金持ちのことをカネモと言っていた。これは方言だろう。「あの子の家、カネモやからな!」。とくに怨念ただよう言葉ではなく、高級なパフェを食べる程度の出来事にも使われていた。「1000円のパフェ食べるとか、先生、カネモやなあ!」。

すこし遠出して散歩した。美術館前の芝生には、根っこから右にかたむくように樹木が生えていて、陽のあたる側面にだけ、びっしりと苔が生えていた。別の木の幹には、焼きたてのパンのような形と色をしたキノコが二つ生えていた。たくさんのトンボが飛んでいた。人さし指を立ててみたが、無視、無視、無視。

汗を流して坂道を登り、帰宅した。

フジロック生配信

午前三時起床。夜型生活が終わって、朝型生活のリズムに移行する寸前の起床時間だ。早朝、一匹目のセミが鳴きはじめる瞬間の声をとらえた。また求愛がはじまった、と思った。しばらく涼しかったが、昨日今日はふたたび暑い。

カネコアヤノをみるべく、昼から Youtube でフジロックの生配信。2018年の『祝祭』で知って以降、ものすごく熱心に聴いている。ひさしぶりに自我意識に食いこんでくるミュージシャンに出くわした。このあいだはとうとう夢にカネコアヤノが出てきて、完全にaikoの時とおなじ道のりを歩んでいる。そのうち「俺はカネコだ」とか言い出すのか。自分で自分にやめてほしいが。

歌唱中のカネコアヤノは表情がぐにゃぐにゃと変わるので、自然と目が釘付けになる。どんだけ表情あんねん、という感じだ。表情筋が固まっていない人を見ると、表情は個数で数えられるものではないことを、あらためて実感させられる。しかし、この四人はよいバンドだよな。

その後、AJICO をみて、夕方にはじまるサニーデイ・サービスを待っている間に熟睡。極端な朝型生活のリズムでは、午後六時はすでに真夜中だ。ナンバーガールも見逃した。無念。