真顔日記

上田啓太のブログ

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地球のことが心配なら、まず踏むのをやめろ

今日はヒマだったので地球の気持ちになって考えていたんだが、やはり、自分のことを踏んでいるやつらが自分のことを心配していたら、「まず足をどけろよ」と感じると思う。地球を守ろう、地球にやさしくと言っているやつらが、自分の上をドタドタ走りまわったり、ゴロンと寝転んだり、ピョンピョン飛び跳ねたりしていたら、こいつらは一体何なんだと思ってしまう。

たとえば、中島しげのぶというおっさんがいるとして、そのおっさんのことをみんなが心配している。中島さんの顔色がよくない、中島さんは大丈夫か、中島さんのこれからが心配だ、なにか中島さんのために僕たちが出来ることはないのか。

しかし、そうして話し合っている全員が、中島しげのぶの体を踏んでいる。這いつくばった中島しげのぶの尻に一人が座り、腰にもう一人が座り、三人目は中島しげのぶの手のひらを踏み、四人目は床に落ちた中島しげのぶのめがねを踏んでいる。割れたレンズの破片が悲しげに散らばっている。そんな状態で、中島さんのことが心配だ、中島さんにもっとやさしくしよう、と言うのは狂っているだろう。

よって、地球にやさしくするためにも、われわれは今すぐ地球を踏むのをやめるべきだと思うんだが、これを書いている現在も、私は地球を踏んでいる。恥ずかしながら告白させてもらえば、私は出生以来、ずっと地球を踏んできた。地球を踏むことが私の人生だったといっても過言ではない。

人のふりみて我がふり直せと言うが、まわりを見渡せば、どいつもこいつも、あっけらかんとした顔で地球を踏んでいる。それが人類という存在であり、地球温暖化に関する会議では、世界各国から有識者が集まって、全員で地球を踏みながら、けんけんがくがくの議論を続けている。「まず足をどけろよ」という地球の意見は、完全無視である。

私はもう、地球を踏みたくない。私だけでも、まずは足をどけてから、地球のことを考えたい。そう決意して、先ほど思い切り飛び上がってみたが、数秒後、さらに強い力で地球を踏んだ。やさしくしたいのに踏んでしまう。SMの女王と乙女心の両立。死ぬまでこれが続くのか。

もう、気球しかない。気球の上で地球を思え。

根本的なかんちがい

小学生のとき、一人のクラスメイトがランドセルを忘れて登校してきた。なにも背負わずに教室に入ってきて、みんなに指摘され、あーっ!と言っていた。当然、その日はいじり倒されていた。私もゲラゲラ笑っていた。

しかし高校生の冬、私は制服を着るのを忘れて学校に行った。ズボンは替えていたのだが、教室でコートを脱ぐと、上半身はパジャマのままだったのである。寝ぼけまなこで着替えた結果だった。当然、いじり倒された。

あの時は、職員室の電話を借りて家に連絡し、母親に学校まで制服を持ってきてもらった。制服を忘れるだけでも恥ずかしいのに、学校に母親まで来てしまう。男子高校生にとって、これはとてつもない恥ずかしさである。カフカの小説の一文を借りるならば、「恥辱だけが生き残るように思われた」という感じ。たしかに、みんなの前で母親から制服を受け取ったとき、恥辱だけが生き残っていた。他のすべては死滅したなかで。

こうした経験のせいかは知らないが、自分はなにか根本的なかんちがいをしており、そのことに気づかないまま行動しているのではないか、という不安が消えない。自分の中にある慢性的な不安感は、このあたりに根を持っているのだろう。

たまに、街を歩いているときにふっと心配になって、股間に手をやる。ちんぽが出てないか不安になるのである。過去に出ていたことはない。しかし、ふっと不安になる。部屋に鍵をかけたか、ふと不安になるように、自分が衣類をしっかりと身に付けているか、性器をしまい忘れてはいないかを気にする。

こんなものは、ほとんど笑いばなしの領域に入っていて、自分でも理屈では笑いばなしになると分かるのだが、街角で股間を確認するときの自分は、べつにウケを狙っているわけではない(だれにウケるというのか)。

おそらく私は、社会のルールを肉体化する機能が通常の人間より弱く、現在の社会ルールにふさわしい行動を取ることができているのか、いちいち確認しようとする。ルールを言語化して記憶しようとするため、いつまでも頭にとどまってしまい、首から下になじんでいかない。その極端なものが、街を歩いているときに性器の露出を確認する行為としてあらわれている。

これは、たとえるならば、サッカーをするときに、いちいちルールを確認するようなもの。このボールを手でさわってはいけない、あそこのゴールに入れなくてはいけない、こちらのゴールも形は同じだが入れてはいけない、同じ服を着ている人は味方だ、違う服を着ている人は敵だ、どちらでもない人は審判だ、まわりの人たちは観客と呼ばれる。われわれを熱心に見ることが楽しいらしい……。

自分は何かかんちがいをしているのではないか、という感覚は、世界の認識に緊張感を与える。しかし、ランドセルや制服を忘れることは、あくまでも学校という環境内でのかんちがいである。性器の露出もまた公共空間での話にすぎない。学校とは関係のない場に身を置くようになったいま、私は制服もランドセルも身に付けないし、銭湯という場においては、周囲に知らない人間がどれだけいようが、私は見事に性器を露出する。

もっと根本的なかんちがいがあるのだ。そして人間は、そのことに気づかないまま、日々の暮らしを営んでいる。その意味において、人間は性器をまるだしにしたまま、気づかずに街中を歩き回っているようなものじゃないのか。

パーフェクトな酔っぱらい

先日、大阪の十三(じゅうそう)に行ったときのこと。

十三というのはいわゆる飲み屋街で、駅前に大衆居酒屋がたくさんあるんだが、一人で駅前を歩いていたとき、典型的な酔っぱらいサラリーマンを見かけて、すごく良かった。私は典型的なものを見るとテンションが上がってしまうたちだから、典型的な酔っぱらいなんかも大好物なのである。

二人組の中年サラリーマンだった。なかよく肩を組んで、歌を歌いながら、千鳥足で歩いている。これは思わず年号を確認したくなる事態でしょう。昭和か?

歌っている曲は、アリスの『遠くで汽笛を聞きながら』。サビの「なにもいいことがなかった」という部分を、大きく声を張りあげて、すべての音程を外しながら歌っている。選曲も最高だし、歌詞も最高だし、まったく歌えてないところも最高。こうした情景を見られただけでも、わざわざ十三まで出てきた甲斐があったと思う。

だから帰りの電車でも、「あんな典型的な酔っぱらいがいるなんて! 本当にいるなんて! あれはもはや酔っぱらいという概念じゃないか!」と興奮していたんだが、十分ほど過ぎた頃には、「頭にネクタイ巻いててほしかったな」と思った。

頭にネクタイを巻いた状態で歌っていたら、文句なしの百点だった。昭和の酔っぱらいとして完璧だった。あれだけ典型的に酔っぱらっていながら、なぜ、ネクタイを巻いていなかったのか。

しかし、それは強欲というもの。見知らぬ乗客たちに囲まれながら、私はみずからの強欲をひとりで恥じていた。あれだけのものを見ておきながら、おまえはネクタイまで求めるのかと。

aikoにとって言葉とは何か?

泡のような愛だった (初回限定仕様盤)

「あたし」の身体に「あなた」の言葉が侵入してくる。それがaikoの歌詞世界である。aikoにとって、言葉は器用に使いこなすことのできる便利な道具ではない。言葉があまりに強く肉体と結びついているからだ。『LoveLetter』の歌詞を見よう。

何度も何度も何度も読み返そうか
だけどそんなに読んだらあなたは嫌かな
何度も体に入ってくる言葉が苦しい 

「あなた」の手紙にまったくうっとりしていないところが、いかにもaiko的な描写だと言える。aikoにとって「あなた」の手紙を読むことは、言葉をみずからの体内にいれて苦しむことなのである。むろん、「苦しいなら読むなよ」というツッコミもありうるが、それはaiko的世界への無理解から起こる。「好き」という感情が苦しみと結びつくことを知らない人は、端的に言って、いまだaikoを知らないのである。

『彼の落書き』という曲では、「あなた」への想いが、「あたし」の体じゅうに文字として浮かび上がってくる。

落ちぬ取れぬ消えぬあなたへの想いは正に
体中の落書きみたい
こすって赤く腫れてしまうから今すぐ
その手でぎゅっと強く包み込んで

「体中の落書きみたい」という比喩は、すぐさま「こすって赤く腫れてしまう」と肉体化していく。言葉と身体が強烈に結びついている。肉体に浮かびあがった想いはどうしても消えてくれず、aikoは必死で体をこするのだが、肌が赤く腫れるだけで、文字は消えてくれない。「今すぐその手でぎゅっと強く包み込んで」という着地点のかわいらしさと、そこに至るプロセスの生々しくグロテスクなイメージの両立が、これまた非常にaiko的な逸品だと言えよう。

熱いふとももに落書き
二人離れぬように名前書いた
細い薄い線だけど 
たやすく消えたりしないわ
心に染み込んで
『リップ』

『彼の落書き』では想いが文字として肉体に浮かび上がってきたが、『リップ』では反対に、肉体に書かれた文字が「心に染み込んで」ゆくことになる。

このように、言葉と肉体があからさまに関係するのがaikoの世界である。「あなた」の書いた文字は体内に侵入し、「あなた」への想いは体じゅうに文字として浮かびあがってくる。そしてふとももに文字を書けば、当然のように心へと染み込んでゆく。それでは恋愛においてもっとも重要な文字とは何か。それは『リップ』でふとももに書かれたもの、すなわち「名前」である。

aikoにとって名前とは何か?

『キスの息』の歌詞を見よう。

手帳に書いた名前を
上から黒く塗りつぶしたけれど
指でなぞるたびに
あたしの心の中にあなたが入ってく

ここでは、非常に複雑な操作がおこなわれている。まず、aikoは「あなた」の名前を手帳に書いている。そしてそれを黒く塗りつぶしてしまう。だがそれでも、指でなぞるたびに、心の中に「あなた」が入ってきてしまうという。

ここでわれわれが確認しなければならないのは、恋愛は固有の名前を必要とするということである。二つの名前が結びつくことが恋愛なのであって、二つの性器が結びつくことが恋愛なのではない。それは生殖という別のジャンルである。

どこかにいい男、いい女がいないかという発想は、どこかにいい性器はいないか、いい遺伝子はいないかという発想であって、ヒトの生殖活動における一プロセスにすぎない。生殖は生殖、恋愛は恋愛である。どちらが良いかという話ではなく、これらは単純に別のものであり、生殖と恋愛を取りちがえたとき、悲劇は生まれる。

ここですこしaikoをはなれ、漫画『君に届け』の一場面を参照しておこう。コミックス1巻、主人公の爽子は放課後に一人で残り、クラスの出席簿を作っている。その最中、爽子は恋の相手である風早の名前をただ見つめる。そこに当の風早がやってくる。風早は出席簿の作成を手伝うと言い、ペンを借りると、そこに爽子の名前を書く。

爽子が風早の名前を書き、風早が爽子の名前を書く。このさりげない共同作業によって、お互いが「あなた」の名前を確認する。風早は教師に呼びだされ去っていくが、爽子は風早の手で書かれた自分の名前を見つめ続ける。ただ文字の並びを見つめるだけのことが、そのまま爽子の心に幸せな感情を生み出す。特定の名前が自分にとって特別なものになるのは、こうした瞬間である。

これを恋愛のはじめの幸福な一場面とするならば、aikoの『キスの息』で描かれたのはその先である。そこでは「あなた」が固有の名前を持ち、他の誰にもかえられない存在であることが苦しみを生み出している。その苦しみゆえにaikoは手帳に書いた「あなた」の名前を黒く塗りつぶすのだが、その行為は何の効果をもたらさず、塗りつぶした名前すら、指でなぞれば心の中に入りこんでしまう。

名前をとおして、「あなた」の固有性を確認する。このとき、はじめて恋愛が生まれる。恋愛とは、関係の固有性を取り戻すための戦いである。恋愛が失なわれれば、あとに残るのは、名もなき性器が織りなす無数の結合にすぎない。みもふたもない言い方をすれば、それはチンコとマンコの順列組み合わせである。

よって、われわれには二つの選択肢が与えられている。特別な名前が存在しないむなしさを生きるか、特別な名前が存在するゆえの不安を生きるか。aikoが生きるのは後者の世界である。

ゾンビとタフグミ

深夜のコンビニは人の思考を停止させるのか。それとも、たんに私の問題なのか。真夜中にコンビニに行く自分は非常にぼんやりしている。感情が茫漠としている。ほとんど死んでいるも同然である。そのありようはゾンビの近似値だ。

それゆえに、予想外のことがあれば途端に破綻する。アドリブで修正することもできない。ゾンビに即興性はないのである。今日がそれだった。当初の予定ではグミを買うはずだった。品名も決めていた。タフグミである。現在の私はこれにハマッている。だからタフグミのことを考えながらコンビニまでの道を歩いた。

もっとも、そのありようはゾンビの近似値であるゆえに、「タフ……グミ……」程度の思念しか頭を流れていない。それでも店にタフグミがあれば問題はなかった。しかし、なかったのである。

タフグミというのは微妙な立ち位置の菓子で、知名度も低く、定番の菓子とは言えない。店によって、置いていたりいなかったりする。私の行ったセブンイレブンにはなかった。それですべてが瓦解した。目的のものがないまま、店内を徘徊するはめになった。なにも買わずに帰るわけにもいかん。残されたのは、深夜三時にコンビニを徘徊するゾンビだ。

帰宅後、袋のなかを見た。日清カップヌードル、ジム・ビームのハイボール350ml缶、おっとっとのうすしお味、ブラックサンダーの偽物みたいなチョコが入っていた。まったくビジョンが見えない。全体像が描けていない。ゾンビの買い物はこれだから困る。なぜ、グミのかわりがこれなのか。グミの空虚を埋めようとして、まったく埋められておらん。シャキッとしろ。

おっとっとのうすしお味はカップ型で、こんな商品があることは今日コンビニに行くまで知らなかった。自分にとって、レギュラーメンバーでも何でもない。どうも、先にカゴに入れたカップヌードルの印象に引っ張られて、似た形状のものを買ってしまったんじゃないか。深夜のゾンビ状態では、どれだけアホらしいことも起こりうる。

ちなみに、ブラックサンダーの偽物みたいなチョコの正式名称は、セブンプレミアムの「ザクザク食感のブラックブロックチョコ」で、ゾンビ状態でも、ブラックサンダーを意識した商品だと判断できた。インス……パイア……。