真顔日記

上田啓太のブログ

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パーフェクトな酔っぱらい

先日、大阪の十三(じゅうそう)に行ったときのこと。

十三というのはいわゆる飲み屋街で、駅前に大衆居酒屋がたくさんあるんだが、一人で駅前を歩いていたとき、典型的な酔っぱらいサラリーマンを見かけて、すごく良かった。私は典型的なものを見るとテンションが上がってしまうたちだから、典型的な酔っぱらいなんかも大好物なのである。

二人組の中年サラリーマンだった。なかよく肩を組んで、歌を歌いながら、千鳥足で歩いている。これは思わず年号を確認したくなる事態でしょう。昭和か?

歌っている曲は、アリスの『遠くで汽笛を聞きながら』。サビの「なにもいいことがなかった」という部分を、大きく声を張りあげて、すべての音程を外しながら歌っている。選曲も最高だし、歌詞も最高だし、まったく歌えてないところも最高。こうした情景を見られただけでも、わざわざ十三まで出てきた甲斐があったと思う。

だから帰りの電車でも、「あんな典型的な酔っぱらいがいるなんて! 本当にいるなんて! あれはもはや酔っぱらいという概念じゃないか!」と興奮していたんだが、十分ほど過ぎた頃には、「頭にネクタイ巻いててほしかったな」と思った。

頭にネクタイを巻いた状態で歌っていたら、文句なしの百点だった。昭和の酔っぱらいとして完璧だった。あれだけ典型的に酔っぱらっていながら、なぜ、ネクタイを巻いていなかったのか。

しかし、それは強欲というもの。見知らぬ乗客たちに囲まれながら、私はみずからの強欲をひとりで恥じていた。あれだけのものを見ておきながら、おまえはネクタイまで求めるのかと。

aikoにとって言葉とは何か?

泡のような愛だった (初回限定仕様盤)

「あたし」の身体に「あなた」の言葉が侵入してくる。それがaikoの歌詞世界である。aikoにとって、言葉は器用に使いこなすことのできる便利な道具ではない。言葉があまりに強く肉体と結びついているからだ。『LoveLetter』の歌詞を見よう。

何度も何度も何度も読み返そうか
だけどそんなに読んだらあなたは嫌かな
何度も体に入ってくる言葉が苦しい 

「あなた」の手紙にまったくうっとりしていないところが、いかにもaiko的な描写だと言える。aikoにとって「あなた」の手紙を読むことは、言葉をみずからの体内にいれて苦しむことなのである。むろん、「苦しいなら読むなよ」というツッコミもありうるが、それはaiko的世界への無理解から起こる。「好き」という感情が苦しみと結びつくことを知らない人は、端的に言って、いまだaikoを知らないのである。

『彼の落書き』という曲では、「あなた」への想いが、「あたし」の体じゅうに文字として浮かび上がってくる。

落ちぬ取れぬ消えぬあなたへの想いは正に
体中の落書きみたい
こすって赤く腫れてしまうから今すぐ
その手でぎゅっと強く包み込んで

「体中の落書きみたい」という比喩は、すぐさま「こすって赤く腫れてしまう」と肉体化していく。言葉と身体が強烈に結びついている。肉体に浮かびあがった想いはどうしても消えてくれず、aikoは必死で体をこするのだが、肌が赤く腫れるだけで、文字は消えてくれない。「今すぐその手でぎゅっと強く包み込んで」という着地点のかわいらしさと、そこに至るプロセスの生々しくグロテスクなイメージの両立が、これまた非常にaiko的な逸品だと言えよう。

熱いふとももに落書き
二人離れぬように名前書いた
細い薄い線だけど 
たやすく消えたりしないわ
心に染み込んで
『リップ』

『彼の落書き』では想いが文字として肉体に浮かび上がってきたが、『リップ』では反対に、肉体に書かれた文字が「心に染み込んで」ゆくことになる。

このように、言葉と肉体があからさまに関係するのがaikoの世界である。「あなた」の書いた文字は体内に侵入し、「あなた」への想いは体じゅうに文字として浮かびあがってくる。そしてふとももに文字を書けば、当然のように心へと染み込んでゆく。それでは恋愛においてもっとも重要な文字とは何か。それは『リップ』でふとももに書かれたもの、すなわち「名前」である。

aikoにとって名前とは何か?

『キスの息』の歌詞を見よう。

手帳に書いた名前を
上から黒く塗りつぶしたけれど
指でなぞるたびに
あたしの心の中にあなたが入ってく

ここでは、非常に複雑な操作がおこなわれている。まず、aikoは「あなた」の名前を手帳に書いている。そしてそれを黒く塗りつぶしてしまう。だがそれでも、指でなぞるたびに、心の中に「あなた」が入ってきてしまうという。

ここでわれわれが確認しなければならないのは、恋愛は固有の名前を必要とするということである。二つの名前が結びつくことが恋愛なのであって、二つの性器が結びつくことが恋愛なのではない。それは生殖という別のジャンルである。

どこかにいい男、いい女がいないかという発想は、どこかにいい性器はいないか、いい遺伝子はいないかという発想であって、ヒトの生殖活動における一プロセスにすぎない。生殖は生殖、恋愛は恋愛である。どちらが良いかという話ではなく、これらは単純に別のものであり、生殖と恋愛を取りちがえたとき、悲劇は生まれる。

ここですこしaikoをはなれ、漫画『君に届け』の一場面を参照しておこう。コミックス1巻、主人公の爽子は放課後に一人で残り、クラスの出席簿を作っている。その最中、爽子は恋の相手である風早の名前をただ見つめる。そこに当の風早がやってくる。風早は出席簿の作成を手伝うと言い、ペンを借りると、そこに爽子の名前を書く。

爽子が風早の名前を書き、風早が爽子の名前を書く。このさりげない共同作業によって、お互いが「あなた」の名前を確認する。風早は教師に呼びだされ去っていくが、爽子は風早の手で書かれた自分の名前を見つめ続ける。ただ文字の並びを見つめるだけのことが、そのまま爽子の心に幸せな感情を生み出す。特定の名前が自分にとって特別なものになるのは、こうした瞬間である。

これを恋愛のはじめの幸福な一場面とするならば、aikoの『キスの息』で描かれたのはその先である。そこでは「あなた」が固有の名前を持ち、他の誰にもかえられない存在であることが苦しみを生み出している。その苦しみゆえにaikoは手帳に書いた「あなた」の名前を黒く塗りつぶすのだが、その行為は何の効果をもたらさず、塗りつぶした名前すら、指でなぞれば心の中に入りこんでしまう。

名前をとおして、「あなた」の固有性を確認する。このとき、はじめて恋愛が生まれる。恋愛とは、関係の固有性を取り戻すための戦いである。恋愛が失なわれれば、あとに残るのは、名もなき性器が織りなす無数の結合にすぎない。みもふたもない言い方をすれば、それはチンコとマンコの順列組み合わせである。

よって、われわれには二つの選択肢が与えられている。特別な名前が存在しないむなしさを生きるか、特別な名前が存在するゆえの不安を生きるか。aikoが生きるのは後者の世界である。

ゾンビとタフグミ

深夜のコンビニは人の思考を停止させるのか。それとも、たんに私の問題なのか。真夜中にコンビニに行く自分は非常にぼんやりしている。感情が茫漠としている。ほとんど死んでいるも同然である。そのありようはゾンビの近似値だ。

それゆえに、予想外のことがあれば途端に破綻する。アドリブで修正することもできない。ゾンビに即興性はないのである。今日がそれだった。当初の予定ではグミを買うはずだった。品名も決めていた。タフグミである。現在の私はこれにハマッている。だからタフグミのことを考えながらコンビニまでの道を歩いた。

もっとも、そのありようはゾンビの近似値であるゆえに、「タフ……グミ……」程度の思念しか頭を流れていない。それでも店にタフグミがあれば問題はなかった。しかし、なかったのである。

タフグミというのは微妙な立ち位置の菓子で、知名度も低く、定番の菓子とは言えない。店によって、置いていたりいなかったりする。私の行ったセブンイレブンにはなかった。それですべてが瓦解した。目的のものがないまま、店内を徘徊するはめになった。なにも買わずに帰るわけにもいかん。残されたのは、深夜三時にコンビニを徘徊するゾンビだ。

帰宅後、袋のなかを見た。日清カップヌードル、ジム・ビームのハイボール350ml缶、おっとっとのうすしお味、ブラックサンダーの偽物みたいなチョコが入っていた。まったくビジョンが見えない。全体像が描けていない。ゾンビの買い物はこれだから困る。なぜ、グミのかわりがこれなのか。グミの空虚を埋めようとして、まったく埋められておらん。シャキッとしろ。

おっとっとのうすしお味はカップ型で、こんな商品があることは今日コンビニに行くまで知らなかった。自分にとって、レギュラーメンバーでも何でもない。どうも、先にカゴに入れたカップヌードルの印象に引っ張られて、似た形状のものを買ってしまったんじゃないか。深夜のゾンビ状態では、どれだけアホらしいことも起こりうる。

ちなみに、ブラックサンダーの偽物みたいなチョコの正式名称は、セブンプレミアムの「ザクザク食感のブラックブロックチョコ」で、ゾンビ状態でも、ブラックサンダーを意識した商品だと判断できた。インス……パイア……。

歩きスマホの人間は、あかんぼのように周囲を信頼している

歩きスマホをする人々がいる。社会問題にもなっているようだ。しかし私は、怒りよりもおどろきのほうが大きい。何におどろくかといえば、世界への圧倒的信頼感におどろくのである。私はあそこまで周囲のすべてを信頼できない。

とくにすごいのは、スマホの画面を凝視しながら歩きつつ、さらにヘッドホンで耳まで覆っている人間で、たまにそんな人間がこちらにずんずん直進してくるんだが、あれ何だ? パラレルワールドに迷いこんだ? 別の世界線のできごと?

目や耳というのは、周囲を警戒するために付いている。それを遮断したまま、大量の人間がいる空間を歩きまわるのは肝が座っている。街中には色々と変な人間もいると思うんだが、そんなに周囲を信頼できるのか。歩きスマホの人間は、街と母親の区別が付いていないのか。おまえの住所は胎内か。

漫画『スラムダンク』の一場面を思い出した。山王戦終盤、三井は体力の限界をむかえ、それでも必死でプレイを続ける。三井はブランクが長いため、ひんぱんに体力の限界をむかえるのである。それを見て客席のだれかが言う。

「やつはいま、あかんぼのように味方を信頼することで、なんとか支えられている……」

すなわち、歩きスマホの人間は、あかんぼのように周囲を信頼することで、なんとか歩きスマホを維持している。歩きスマホの人間を支えているのは、自分が突っ込んでいけば他人はかならずよけてくれるという信頼、自分に危害を加えるような通行人は絶対に一人もいないという信頼、気づかず車道に出ていても車のほうでしっかり停止してくれるという信頼……。

というか、なにも考えてないだけな気がしてきた。あかんぼのように周囲を信頼することで歩きスマホを維持する人間のリアリティのなさ。そんなやついるか。しかし、歩きスマホには周囲への無自覚な信頼感が必要なのは事実。自分が歩けば海だって割れるという確信。歩きスマホの人間は自意識がモーゼ。まずい、どんどんかっこよく思えてきた。

aikoとゴリラの雪どけ

ゴリラの問題は終わったと思っていた。それは過去のことだったはずだ。aikoとゴリラの綱引きは終った。私はもはやaikoとなった。それでよかったはずだ。しかし今ふたたび、ゴリラが問題としてせりあがってきている。aikoとゴリラの綱引きは終っていなかった。

だが、このブログにおける「ゴリラ」にせよ、「aiko」にせよ、非常に特殊な用語になっていることは事実だ。それは一般的な意味合いからかけ離れている。混乱を避けるためにも、まずは整理しておいたほうがよいだろう。

数年前、「aikoとゴリラの綱引き」という文を書いた。そこではaikoの勝利に終わらせた。これが当時の結論だった。「ゴリラとしてふるまえ」という社会からの要求によってゴリラのように振るまっていた男がいて(ハリボテとしてのゴリラ)、その男が自己の内側に、背の低い女としてのaikoを発見する。その発見によって、ゴリラ的なものとaiko的なものの葛藤が起こる(aikoとゴリラの綱引き)。その葛藤の果てに、自己の内側にaikoがいることを受け入れる(綱引きの終わり)。そのとき、「俺はaikoだ」という発言が生まれる。

私は、これで終りだと思っていた。あとは自己の内にあるaikoを徹底的に注視すること、掘り下げることだと思っていた。だが、その先に残り半分としてのaikoを見つける段階があり、それは、ゴリラとしてのaikoだったんじゃないか。

ゴリラとしてのaiko

考えてみれば当然のことだが、実際のaiko(ミュージシャンとして活動するaiko)は、ゴリラ性を持っている。そうでなければ、二十年にわたってコンスタントに作品を発表し、全国規模のライブツアーを毎年のように行うことが可能であるはずがない。aikoの中には、背の高い女もいる。元気のない女が展開する不安定な歌詞世界を、元気のある女としての基盤が支えているのだ。

もしも精神的に不安定なだけの人間がミュージシャンをやれば、一枚か二枚のアルバムを発表したあと、長期的に休止するか、フェードアウトしてしまうだろう。巨大な反響に耐えられないからだ。その場合、メジャーな場で活動するのではなく、マイナーなところで、カルト的な人気を生むだけで終わるんじゃないか。

「aikoとゴリラの綱引き」のすこし後に、「aikoは元気な女なのか?」という文を書いた。ここで私は、aikoのなかにいる「元気な女=ゴリラ性」をないものとしたのだろう。このブログにおける「aiko」を定義するために。それは、あの時点では必要なことだったと思う。私が音源のみを熱心に聴き、ライブ映像などは観ず、インタビューや歌番組やラジオなどの発言に興味を持たなかったのも、自分の内側で研ぎ澄まされた「aiko」という概念の純粋性を保ちたいがゆえだったんだろう。

ある段階において正しいことが、次の段階では障害としてあらわれることもある。私は次の段階に進まなければならない。aikoとゴリラの綱引きに戻れば、綱がなければ、ひとりの人間のなかに、aikoとゴリラは問題なく同居する。そこに綱を用意してしまうから、綱引きがはじまる。aikoとゴリラのどちらかでなければならないという、その思い込みこそが綱であり、はじめから綱引きなどしなければよかった。aikoとゴリラは綱を引き合うべきではなく、ただ握手をすればよかったのではないか。

傷付け合う事が起きたら これ以上悲しまないように
最後まで何があっても 忘れないで
あなたと握手
aiko『あなたと握手』

私は、はじめからゴリラであり、aikoでもあったのだが、自己の内側にいるゴリラをないものとし、自己の内側にいるaikoをないものとし、そのうえで、ハリボテとしてのゴリラに身を包んでいた。それが十代後半から二十代前半の私だったんだろう。面白いのは、すでにゴリラを内在した人間が、それを存在しないものとしたうえで、ハリボテとしてのゴリラを別に用意していたことで、それは、自然な笑顔をもった人間が、それを抑制したうえで、ぎこちない作り笑顔で世の中を渡ろうとするようなものだったんだろう。

aikoとaikoさん

最近、「aikoさん」という用語を導入するべきではないかと考えている。このブログにおける「aiko」は、歌手aikoの歌詞世界から私の頭のなかに構築された存在である。それは歌詞における「あたし」とイコールで結びつけられ、実際のaikoは意図的に捨象されている。それに対し、「aikoさん」は歌手であり、人間であり、この世に肉体をもって実在している。そして私はaikoさんのことを、一人の作り手として、すごく尊敬している。

そうした意味で、私はaikoではあるがaikoさんではなく、しかし、aikoさんの姿勢から学ばなければならないし、aikoさんのようにありたいと思っている。それが自己の自然なゴリラ性を認めることにもなるのだろう。このとき、長く続いたaikoとゴリラの綱引きが、本当の意味で終わりを迎える。それが、aikoとゴリラの雪どけである。私はこれからもaikoを聴くだろうが、今後は同じくらい、ゴリラも聴くんじゃないだろうか。もっとも、ゴリラは音源を一切リリースしていないんだが。