真顔日記

上田啓太のブログ

一覧 告知 販売

お知らせ:真顔日記アーカイブス新装開店

歩きスマホの人間は、あかんぼのように周囲を信頼している

歩きスマホをする人々がいる。社会問題にもなっているようだ。しかし私は、怒りよりもおどろきのほうが大きい。何におどろくかといえば、世界への圧倒的信頼感におどろくのである。私はあそこまで周囲のすべてを信頼できない。

とくにすごいのは、スマホの画面を凝視しながら歩きつつ、さらにヘッドホンで耳まで覆っている人間で、たまにそんな人間がこちらにずんずん直進してくるんだが、あれ何だ? パラレルワールドに迷いこんだ? 別の世界線のできごと?

目や耳というのは、周囲を警戒するために付いている。それを遮断したまま、大量の人間がいる空間を歩きまわるのは肝が座っている。街中には色々と変な人間もいると思うんだが、そんなに周囲を信頼できるのか。歩きスマホの人間は、街と母親の区別が付いていないのか。おまえの住所は胎内か。

漫画『スラムダンク』の一場面を思い出した。山王戦終盤、三井は体力の限界をむかえ、それでも必死でプレイを続ける。三井はブランクが長いため、ひんぱんに体力の限界をむかえるのである。それを見て客席のだれかが言う。

「やつはいま、あかんぼのように味方を信頼することで、なんとか支えられている……」

すなわち、歩きスマホの人間は、あかんぼのように周囲を信頼することで、なんとか歩きスマホを維持している。歩きスマホの人間を支えているのは、自分が突っ込んでいけば他人はかならずよけてくれるという信頼、自分に危害を加えるような通行人は絶対に一人もいないという信頼、気づかず車道に出ていても車のほうでしっかり停止してくれるという信頼……。

というか、なにも考えてないだけな気がしてきた。あかんぼのように周囲を信頼することで歩きスマホを維持する人間のリアリティのなさ。そんなやついるか。しかし、歩きスマホには周囲への無自覚な信頼感が必要なのは事実。自分が歩けば海だって割れるという確信。歩きスマホの人間は自意識がモーゼ。まずい、どんどんかっこよく思えてきた。

aikoとゴリラの雪どけ

ゴリラの問題は終わったと思っていた。それは過去のことだったはずだ。aikoとゴリラの綱引きは終った。私はもはやaikoとなった。それでよかったはずだ。しかし今ふたたび、ゴリラが問題としてせりあがってきている。aikoとゴリラの綱引きは終っていなかった。

だが、このブログにおける「ゴリラ」にせよ、「aiko」にせよ、非常に特殊な用語になっていることは事実だ。それは一般的な意味合いからかけ離れている。混乱を避けるためにも、まずは整理しておいたほうがよいだろう。

数年前、「aikoとゴリラの綱引き」という文を書いた。そこではaikoの勝利に終わらせた。これが当時の結論だった。「ゴリラとしてふるまえ」という社会からの要求によってゴリラのように振るまっていた男がいて(ハリボテとしてのゴリラ)、その男が自己の内側に、背の低い女としてのaikoを発見する。その発見によって、ゴリラ的なものとaiko的なものの葛藤が起こる(aikoとゴリラの綱引き)。その葛藤の果てに、自己の内側にaikoがいることを受け入れる(綱引きの終わり)。そのとき、「俺はaikoだ」という発言が生まれる。

私は、これで終りだと思っていた。あとは自己の内にあるaikoを徹底的に注視すること、掘り下げることだと思っていた。だが、その先に残り半分としてのaikoを見つける段階があり、それは、ゴリラとしてのaikoだったんじゃないか。

ゴリラとしてのaiko

考えてみれば当然のことだが、実際のaiko(ミュージシャンとして活動するaiko)は、ゴリラ性を持っている。そうでなければ、二十年にわたってコンスタントに作品を発表し、全国規模のライブツアーを毎年のように行うことが可能であるはずがない。aikoの中には、背の高い女もいる。元気のない女が展開する不安定な歌詞世界を、元気のある女としての基盤が支えているのだ。

もしも精神的に不安定なだけの人間がミュージシャンをやれば、一枚か二枚のアルバムを発表したあと、長期的に休止するか、フェードアウトしてしまうだろう。巨大な反響に耐えられないからだ。その場合、メジャーな場で活動するのではなく、マイナーなところで、カルト的な人気を生むだけで終わるんじゃないか。

「aikoとゴリラの綱引き」のすこし後に、「aikoは元気な女なのか?」という文を書いた。ここで私は、aikoのなかにいる「元気な女=ゴリラ性」をないものとしたのだろう。このブログにおける「aiko」を定義するために。それは、あの時点では必要なことだったと思う。私が音源のみを熱心に聴き、ライブ映像などは観ず、インタビューや歌番組やラジオなどの発言に興味を持たなかったのも、自分の内側で研ぎ澄まされた「aiko」という概念の純粋性を保ちたいがゆえだったんだろう。

ある段階において正しいことが、次の段階では障害としてあらわれることもある。私は次の段階に進まなければならない。aikoとゴリラの綱引きに戻れば、綱がなければ、ひとりの人間のなかに、aikoとゴリラは問題なく同居する。そこに綱を用意してしまうから、綱引きがはじまる。aikoとゴリラのどちらかでなければならないという、その思い込みこそが綱であり、はじめから綱引きなどしなければよかった。aikoとゴリラは綱を引き合うべきではなく、ただ握手をすればよかったのではないか。

傷付け合う事が起きたら これ以上悲しまないように
最後まで何があっても 忘れないで
あなたと握手
aiko『あなたと握手』

私は、はじめからゴリラであり、aikoでもあったのだが、自己の内側にいるゴリラをないものとし、自己の内側にいるaikoをないものとし、そのうえで、ハリボテとしてのゴリラに身を包んでいた。それが十代後半から二十代前半の私だったんだろう。面白いのは、すでにゴリラを内在した人間が、それを存在しないものとしたうえで、ハリボテとしてのゴリラを別に用意していたことで、それは、自然な笑顔をもった人間が、それを抑制したうえで、ぎこちない作り笑顔で世の中を渡ろうとするようなものだったんだろう。

aikoとaikoさん

最近、「aikoさん」という用語を導入するべきではないかと考えている。このブログにおける「aiko」は、歌手aikoの歌詞世界から私の頭のなかに構築された存在である。それは歌詞における「あたし」とイコールで結びつけられ、実際のaikoは意図的に捨象されている。それに対し、「aikoさん」は歌手であり、人間であり、この世に肉体をもって実在している。そして私はaikoさんのことを、一人の作り手として、すごく尊敬している。

そうした意味で、私はaikoではあるがaikoさんではなく、しかし、aikoさんの姿勢から学ばなければならないし、aikoさんのようにありたいと思っている。それが自己の自然なゴリラ性を認めることにもなるのだろう。このとき、長く続いたaikoとゴリラの綱引きが、本当の意味で終わりを迎える。それが、aikoとゴリラの雪どけである。私はこれからもaikoを聴くだろうが、今後は同じくらい、ゴリラも聴くんじゃないだろうか。もっとも、ゴリラは音源を一切リリースしていないんだが。

おっさんは一つの様式

気づけば三十歳を過ぎている。同世代の男は少しずつ自分をおっさんと称しはじめた。しかし自分にはどうもおっさんとしての自覚が生まれない。ほとんど人に会わない生活をしていることも大きいんだろう。ひとりでいると年齢感覚がアップデートされないため、なんとなく自意識は二十代で止まったままだ。

ただ先日、ふらっと立ち寄った天下一品でラーメンとギョーザを食べながら店内に置かれていたプレイボーイの水着グラビアを眺めていたとき、「いや俺おっさんじゃん」と衝撃を受けた。自分の状況を俯瞰して、「こいつ完全におっさんみたいなことしてんな」と。何の言い訳もきかない姿だった。

しみじみ思ったが、「おっさん」という存在は非常に文化的な様式だと言える。いかにもおっさんめいた言動が人々のイメージとして共有されており、自覚的にせよ無自覚にせよ、そのイメージをなぞったときに人はおっさんとなるのである。そして、天下一品でラーメンとギョーザを食べながら週刊誌のグラビアを眺めるというのは、まさに文化的に登録されたおっさんらしさの典型だったんだろう。

これをフィギュアスケートのような競技としてみるならば、天下一品でラーメンを食べることで点数が加算される。さらにギョーザを頼んだことで加点、店に置かれたプレイボーイを手に取ったことで加点、若い女の水着グラビアを見たことで加点、といったところか。審査員がピッピッピと点数を入力していく光景が目に浮かぶ。

ただ、注文時に「ラーメンはこってり? あっさり?」ときかれて、私は「あっさり」と即答したんだが、あれ、減点されてたと思う。おっさんなら、こってりでしょう。審査員も舌打ちしたでしょうね。萎えるような凡ミスだし。

以下、予想される審査員コメント。

「入店と同時にプレイボーイを手に取ったことで期待させられる出だしとなった今回の演技だが、注文時の二択であっさりを選んだことですぐさま馬脚をあらわした。ああいったことをされると他の行為も結局は若造のまぐれ当たりにすぎなかったのかと失望させられる。注文におけるギョーザは加点対象としたがこれくらいは誰でもできる。水着グラビアを眺める際の表情のしまりのなさで多少は挽回したが不信感を払拭するほどには至らず。まったくもって皮脂が足りていない。今後はもっともっと、加齢臭のにおいたつような演技を期待したい」

これは、さんざんな評価ですね。精進しよう。トイレのドアを開けたまま放尿しよう。

読んだことのない雑誌を読んでみる

前置き:今年の没原稿を供養しておきたい。内容とは関係のない事情でお蔵入りになった。雑誌読み放題サービスを使って色々な雑誌を読んでみるという企画。

 *

未知の雑誌を読むことには、独特の楽しさがある。ふだんの自分の関心から遠ければ遠いほどに楽しい。一冊の雑誌をとおして、自分の知らない世界をのぞきこむことができるからだ。そしてこうした体験は、たとえば美容院での待ち時間や、ふらりと立ち寄った定食屋ですることができた。

しかし現代では、雑誌読み放題サービスというものがある。これは要するに、ああいった楽しみを自宅で再現できるということじゃないのか。家にいながら、知らない世界をのぞきこみ放題だ。ということで、本日は読んだことのない雑誌を色々と読んでみたい。まずは『CanCam』から。

CanCam 2018年6月号

特集:眉と前髪

『CanCam』は「20代女性の"今"をきりとるファッションバラエティマガジン」である。特集タイトルはシンプルに「眉と前髪」。いさぎよい。

特集内で男性ヘアメイクさんのコメントが紹介されているのだが、これがわりと強烈なものだ。眉と前髪の処理で美人かブスかまで変わる、だから絶対に頑張るべきだと断言されている。そして、だめ押しのように放たれるひとことがこれ。

眉と前髪から逃げちゃダメ!

自分は『CanCam』のターゲット層でもなんでもないわけだが(30代の男だし)、ここまで断言されると、「俺も眉と前髪から逃げるのはやめよう……」と思ってしまう。考えてみれば、眉とも前髪とも、まともに向き合ったことのない30年だった。

まあ、反省してみたところで、実際に『CanCam』へ視線を戻すと自分の参考には全然ならないわけだが、どうも断言されると私は弱い。

眉を太く描くのはすごく怖いことだけど

これは、妙に切実なひびきがあるところが面白かった。「人を心から信じるのはすごく怖いことだけど」みたいな雰囲気。それでも勇気をだして眉を太めに描いてみよう、という主旨のようだ。世の中には色々な勇気がある。

美スト 2018年6月号

特集:「すっぴんがキレイそう」こそ、ほめられメークの最終結論!

『美スト』は、「40代、あの頃より今日、今日より5年後の私が絶対キレイ! 多くの壁を乗り越え、美を磨く女性を応援する美容誌」である。「多くの壁を乗り越え」というあたりに、すばらしい迫力がある。この迫力は『CanCam』には出せないだろう。

特集の要点は「どうすれば、すっぴんがキレイそうだと思われるか?」である。これはものすごく複雑な欲望だと思う。もはや「キレイだと思われたい」という単純な欲望ではなく、「メークした顔からスッピンを想像されたうえで、その顔をキレイだと思われたい」のである。人間の欲望の複雑化を感じる。

メークに関しては、以下のような小特集もあった。

『電車でメーク』論争を美しく解決!

電車で化粧することについて、否定派と肯定派それぞれの意見を集めている。否定派の「部屋も汚いんだと思う」という言いがかりに笑ってしまった。電車で化粧しただけでそこまで言われてしまうのか。

ちなみに、この雑誌にも「前髪さえうまくいけば、すべてうまくいく!」という見出しがあった。世の女性には前髪信仰とでもいうべきものがあるんだろうか。前髪さえうまくいけば世界平和がおとずれる、とでも言い出しそうな勢いである。

こうなってくると、トランプ大統領の前髪が気になってきますね。あの前髪さえうまくいけば、国際情勢のもろもろも解決するんじゃないのか。今後、われわれはあの前髪を注視していくべきではないのか。

ムー 2018年5月号

特集:転生と臨死体験の謎を解く「中間世」の秘密

『ムー』は、「UFOから超能力、UMA、超常現象、神秘、都市伝説まで、世界の謎と不思議に挑戦するスーパーミステリーマガジン」である。

まさか『ムー』があるとは思わなかった。オカルトといえば『ムー』、『ムー』といえばオカルトである。雑誌リストの中でも一つだけ異様な雰囲気を放っていて面白い。さっきまで眉や前髪について考えていたのに、今度は生まれ変わりや臨死体験。話の方向が変わりすぎである。これが読み放題の醍醐味なのか。

もっとも、『ムー』という響きだけをみれば、女性誌に見えないこともないんじゃないか。たとえば、ノンノ、ムー、アンアンというふうに並べてみるとどうか。違和感なく女性誌に見えないか。まあ、べつに見える必要はないわけだが。

アマゾンで恐竜壁画を発見!!

タクシーの窓に映る死者の顔!!

とにかく見出しのテンションが高くて面白い。こんなことを叫びながら教室に駆け込んでくる友だちがいたらいいなと思う。ちなみに恐竜壁画にかんする記事の導入は、

やはり人類と恐竜は共存していたのか!? その事実を裏付ける"岩絵"の存在が明らかになった!!

画面ごしに鼻息がかかりそうなテンション。書き手の興奮が伝わってくる。

『CanCam』と『美スト』のあとで『ムー』を読むと、人間の多様性みたいなものに思いをはせてしまう。この世界には、前髪と眉から逃げないと決意する人間もいれば、電車内でのメークについて議論する人間もおり、恐竜と人類が共存していた可能性に興奮する人間もいるのだ。人類って、本当に色々なやつがいる。

『ムー』をさらに読んでいくと、現実感覚が徐々にゆがみはじめる。

転生の仕組みと現実世界は、「ワンネス」が創造した遊園地!?

秘められた宇宙エネルギーが、あなたを幸運へと導く!! テクタイト・クリスタルの魔法

人生のシナリオを書き換えられる! 神道発祥の地『壱岐島』

こうした記事をずっと読んでいると、こってりしたものを無限に食べ続けている気分になってくる。こちら前菜のカツ丼でございます、続いて本日のメインのカツ丼に、副菜のカツ丼でございます。ところでお客様、食後のデザートにカツ丼はいかがでしょうか? みたいな感じ。『ムー』は胃にくる。

ゲーテ 2018年6月号

特集:戦う身体! 人生を劇的に変えるメンテナンス

『ゲーテ』は、「仕事に遊びに一切妥協できない男たちが人生を謳歌するためのライフスタイル誌」である。

なんというか、一気に現世へと戻ってきた感がある。『ゲーテ』を読む人は『ムー』を読まないだろうし、『ムー』を読む人は『ゲーテ』を読まないだろう。

もしも両方を毎号熱心に読んでいる人がいるならば、ぜひとも会ってみたい。一体、どんな人間なのか。胸まで開いたシャツを着て、日焼けした肌に白い歯をのぞかせながら、「ご存知ですか! 人類と恐竜は共存していたんですよ!」とか言ってくるのか。ちょっと好きになっちゃいそうだが。

さて、私は雑誌の見出しがなにかを命令してくる瞬間が好きである。読者を煽る瞬間が好きだと言い換えてもいい。「あなたは今すぐこれをするべきだ」と主張するとき、その雑誌は輝くのである。その意味で、『ゲーテ』の以下の見出しはすごくよかった。

腰を救え!

いったい、なにを命令してくるのか。こんなに生活感あふれる命令があるか。小学生男子は勇者になって世界を救いたがるものだが、男も中年になると自分の腰を救いたがるということか。たしかにまあ、腰が痛いと世界だって救えないが。まずは腰、それから世界。それが中年のリアルということか。

もうひとつ、面白かった命令形がこれ。

美しさは金で買え!

みもふたもなさが良い。札束でブン殴るかんじ。これもまた中年のリアル。

つり情報(2018年5月15日号)

特集:レンタルタックルで始める青物ジギング入門

その名のとおり、釣り人のための情報誌である。

私は釣りをしたことがない。まったくの門外漢である。しかし、自分の知らない分野の文章には独特の面白さがある。完全に置いてきぼりにされる快感とでも言えばいいのだろうか。書き手の興奮は伝わってくるが、その興奮を自分はまったく共有できない。そのギャップにぞくぞくするのである。

その意味で、『つり情報』に出てくる以下の文章は最高だった。

外房の青物ジギングがいよいよ初夏のトップシーズンに突入! メインターゲット・ヒラマサのほかワラサやイナダ、カンパチといった青物が数、型ともに期待できるこの時期はジギング入門にピッタリの季節でもありやす。とはいえ専用のタックルを持っていないからと、これまで二の足を踏んでいた人も多いのでは?

短い文を読むだけで、大量の疑問がわいてくる。「ジギング」って何だろう。「青物」はなんとなく分かる。「ヒラマサ」「ワラサ」「イナダ」は魚の名前か。しかし聞いたことのあるようなないような微妙なレベル。「カンパチ」は響きが面白いから知っている。「ありやす」というのは釣り人特有の口調なんだろうか。それとも、この雑誌特有の口調なんだろうか。そして「専用のタックル」とは?

門外漢にとって、専門誌の文章は暗号に近く、そして私のような人間は、その暗号めいた雰囲気にぞくぞくしてしまう。謎の専門用語が乱舞する快感。わけのわからなさに巻き込まれることの恍惚。今回のように文章全体の温度が高いと、余計にたまらない。「よく分からんが、とにかく楽しそうでなによりだ!」という気分になってくる。

分からないままに、他のページもぱらぱら読んでみる。すぐに気づいたのは、「釣った魚を持っている人の写真」が大量に載っていることだ。みんな嬉しそう。とても良い顔をしている。これが釣り人にとっての至高の瞬間なのか。ちょっと惹かれる。釣りをしてみるのもいいのかもしれない。

まとめ

以上、今回は五つの雑誌を読んでみた。美容院の待ち時間のような気分になるかと思ったが、実際は、もっと混沌とした体験だった。雑誌の振り幅が大きいからだろう。日本中どこの美容院に行っても、美容師が待ち時間に『CanCam』と『ムー』を渡してくることは絶対にない。

この後しばらくは、頭のなかが大変なことになっていた。雑誌で読んだ断片的な知識やイメージが頭のなかを舞いはじめる。さまざまな欲望、さまざまな断言、さまざまな命令。とりあえず私も眉と前髪から逃げるのはやめて、腰を救いながら、釣りでもしようかと思う。そして、来世はカンパチにでも生まれ変わりたい。

ハンガーにかけられたコートは、なぜあんなに偉そうなのか?

はじめて意識したのは十八歳の時だった。一人暮らしをはじめた冬である。自分のコートをハンガーにかけて思った。なぜ、コートという衣類はこんなにも偉そうなのか? 衣類がここまで偉そうな態度を取ることがあるか?

正面から見たときの話である。ものすごく偉そうに感じる。両腕の張りかたが尋常じゃない。直立不動である。非常に堂々としている。二文字であらわすならば「凱旋」である。あきらかに何かを成し遂げている。

それは、ハンガーにかけられたことの誇りなのか? すなわち、他の衣服はたいてい畳まれているが、自分は畳まれることなく、ハンガーという特権的地位にある。その誇りが、コートの態度を偉そうにするのか?

この視点をいちど獲得してしまうと、服屋に行くことも大変である。あちこちに偉そうな衣類が飾られている。ハンガーにかけられたジャケットというのも、なかなかに偉そうだ。ものすごく胸を張っている。形状記憶ということなんだろうが、そもそも、形状を記憶してやろうという魂胆が偉そうでしょう。よっぽど形状に自信があるんでしょうね。

その点、ネルシャツなんかは、クタッとしていて、かわいらしい。Tシャツとなれば、もはや偉そうでもなんでもなく、ただのペラペラの布である。とっても気さく。

十九歳の冬、一人暮らしの部屋に女の子が来た。われわれはまだ微妙な関係だった。お互いに意識はしている。しかし、完全に打ち解けているわけでもない。会話は瞬間的に盛り上がり、ふと途切れて沈黙が支配する。

そんな状況で、壁にかけられた彼女のコートだけが堂々としていた。ぎこちなく笑う彼女の向こうに、堂々と胸をはる彼女のコートが見える。私は緊張しつつ、たまにその偉そうなコートを見ていた。なんであんなに偉そうなんだろう。ハンガーにかけられた野獣の証。「あまたのオスを喰い尽くし、いまだ欲望は満たされぬ」みたいな雰囲気。しかし彼女は照れていた。どっちが本当の君なの。