真顔日記

上田啓太のブログ

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野生の勘よりグーグルマップ

最近はまったく道に迷わなくなった。日常的にネットを使う環境にあるからだろう。スマホを出せばその場で道を調べられるから、迷いようがない。これは地味にすばらしいことかもしれない。というのも、私はいわゆる方向音痴というやつで、以前はひんぱんに道に迷っていたからである。

十代の頃、はじめて遊びに行った友人の家から帰るとき、「10分ほど歩けば駅につくよ」と教えられて出発し、ひたすら歩き続けて1時間、深い森にいたことがあった。あれが人生で一番ひどい迷いかただった。何をどう間違えれば、駅のかわりに森につくのか(しかも深い)。

そのときはなんとか森を抜け、電車じゃなくタクシーでうちに帰った(最終の電車がなくなるほど夜が更けていた)。あとから聞いたところ、私は一度目の岐路で間違え、そのままひたすら間違った方向に歩き続けたようだった。その結果の深い森である。

道に迷うというのは、岐路で間違えるということだ。一本道で迷うことはない。そして岐路で間違えた時、正論を言わせてもらうならば、途中で気づいて、間違えたところまで戻ればよい。少なくとも、自分が深い森にいると気づくまでに、このままじゃ絶対に駅には着かないと分かるはずなんだから、その時点でくるりと方向転換し、来た道を戻ればよかった。

しかし、方向音痴の人間を支えるのは「妙な自信」である。あのころ、私は岐路のすべてを直感で処理していた。自分では、それを「野生の勘」と呼んでいた。右に行くか左に行くかは野生の勘で即座に決め、自信まんまんで進みはじめる。そして、ひんぱんに迷っていた。

すこし考えれば分かるが、小学生のころからファミコンのコントローラーを握っていた男に野生の勘などあるはずがない。人生で一度も野生だったことがないくせに、野生の勘がそなわっていると思っているんだから、のんきなものだ。そのまま深い森で十年ほど過ごしていれば、野生の勘も備わったんじゃないのか。

むかしの自分に皮肉を言っていても仕方ないが、これが方向音痴の人間のしくみである。そして、そんな私ですら最近は道に迷わない。すこしでも迷いそうになるとスマホでグーグルマップを見るからである。現在地も表示してくれている。これならば迷うことがない。

野生の勘よりグーグルマップ。ファミコンで成長した男にお似合いの結論ですね。

「アイプチで白目をむく」という現象について

高校時代のクラスメイトに、やたらと白目をむく女がいた。背の低い女子で、目が小さく、それをコンプレックスにしており、毎朝がんばって二重にするべくアイプチをするんだが、その影響で、喋っていると唐突に白目をむいてしまう。本人も自覚していた。

あの現象は何だったんだろう。アイプチで白目になるというのは、当時有名な話だった。私はいまいち仕組みを分かっていないが、アイプチの糊のせいで、まばたきのときに完全にまぶたが閉じなくなる? 中途半端に開いたままになる? それで、すこしだけ白目が見えてしまう?

疑問形だらけですまない。

とにかく言えるのは、アイプチで白目をむくのは致命的だということである。カワイイを獲得したくてアイプチしているのに、白目というのはカワイイの正反対だろう。

目は一重だが喋りながら白目をむかない女と、ぱっちり二重だが喋りながら白目をむく女では、どちらが魅力的なのか。そんな問いも生まれる。白目をむくリスクと、二重になるリターンは、どちらが大きいのか。

なんだか、能力者バトルみたいでもある。冨樫義博あたりに描いてほしい。主人公の女子が師匠に出会い、特殊能力「アイプチ」を獲得するのだ。これを使うと二重になれるが、まばたきのとき白目をむいてしまうリスクもある。ぱっちり二重にするほど、白目の確率もあがる。これは戦略性がある。少女マンガ的な主人公が、少年マンガ的な物語をやると、こうなるんじゃないか。

日常生活では、いかに白目をむかずに二重になるかが試される。たとえば自撮りの瞬間だけ能力を発動させ、すぐに戻す。それなら白目に気づかれることもない。デートの時は、ここぞという場面でだけ二重になればいい。見つめあう瞬間だけ能力発動だ。しかし、あまり長々と二重になってはいけない。彼の前で白目をむくのは致命的だからだ。

しかしある時、なにも知らない彼は提案してくる。一泊二日の温泉デート。もう絶対にごまかせない。それでも好きな人への想いは止められない。初日の夜、限界をこえたアイプチの発動。デート開始より物陰で見ていた師匠がさけぶ。

「もうやめろ、それ以上アイプチすると、死ぬまで白目ですごすことになるぞ!」

「それでもいい……今この瞬間に二重でいられるなら……今、シュン君にかわいいと言ってもらえるなら、これで最後でいい、これが最後の二重になってもいいッ!」

「やめろーーーーーーッ!」

ということで、シュン君とのデート中にずっとぱっちり二重だった主人公は、その後は自分の部屋で正座しながら、ずっと白目をむいている。口からはよだれダラダラ。限界をこえてアイプチしたんだから当然ですね。

マンガ喫茶バイトの思い出

マンガ喫茶でバイトしていたことがある。あの仕事はよかった。すばらしく暇だった。何をすることでもなく一人でカウンターに立っていることが多かった。「労働」と「ぼんやり」の境界線が溶けてゆくのを感じていた。

想像がつくと思うが、マンガ喫茶では、客は受付をすますと、みんな勝手にマンガを読みはじめる。もはや店員は必要ない。食事を頼むときくらいだ。それに食事といっても、私の働いていた店は冷凍ピラフや冷凍チャーハン、それに冷凍のタコ焼きを出すだけだった。どれもレンジでチンするだけである。

店のマニュアルには、「レンジのチンの音は絶対に鳴らさないようにしろ」と書いてあった。客に聞こえるとイメージがよくないからだろう。これはいま思い出すと笑う。そりゃ客だって、バックヤードで三つ星シェフがチャーハン炒めてくれてるとは思ってないだろうが、それでも向こうから「チン!」という音がきこえて、そのあと店員がチャーハンを持ってくれば色々と考えてしまうだろう。

だから、あたため完了の残り数秒、正確にはレンジの数字が「1」になった時点で、すばやく扉をあけるきまりだった。たまに他の作業が忙しく、音が鳴ってしまうと、ミス扱い。すこしだけ場がピリッとしていた。

あの頃は、とにかく掃除ばかりさせられていた。店長はバイトをボーッとさせたくないんだが、やらせるにも仕事がない。だから「掃除」という半永久的にできる作業が生まれる。店に店長がいるときは、バイト全員、潔癖症のようにひたすら掃除をしていた。床を拭き、空いている個室を掃除し、マンガを包んでいるビニールを拭き、トイレを掃除し、バックヤードも掃除し……。

もっとも、これは店による。店長がゆるいところだと、バイトは平気でサボッている。一時期、客として通っていたマンガ喫茶があったんだが、あの店はひどかった。受付のバイトが若い男女二人なんだが、その二人が、まったくバイトらしさを漂わせていなかった。つまり、接客業特有のうそくささ、作り込まれた元気のよさがなく、むきだしの男と女として、カウンターに立っていたのである。まるでジョンレノンとオノヨーコのように。

もちろん、声もまったく張らない。男のほうが店のシステムを説明するが、女はただ隣に立っているだけで、笑顔もなにもない。気だるそうにしている。二人の背後には薄暗い事務室が見える。こいつらあの部屋でヤッてんじゃないか、という雰囲気があった。

すこし前に調べたら、その店は潰れていた。そりゃそうだろ、と思った。あんなにみだらな接客をされると落ち着かない。接客がみだらということありますか!

なぜ十代の頃はあんなに徹夜していたのか?

なんだかんだで徹夜をしなくなった。年をとると徹夜がキツくなるなんて話を、むかしは他人事のように聞いていた。十代後半から二十代にかけて。しかし三十歳をすぎた今、たしかに徹夜はつらい。意味もなく夜更かしなどしたくない。夜は眠るための時間だ。

そもそも最近は、徹夜などする意味もない。徹夜する場合、単純にスケジューリングの失敗を意味する。当時はなぜ、あんなに意味もなく徹夜していたのか。たとえば大学のテストがあるから徹夜、友達とカラオケに行けば徹夜、酒を飲むときもだれかの家で徹夜、眠くなったやつから脱落して雑魚寝。

マンガ喫茶のナイトパックで朝までマンガを読み続けるという行為もひんぱんにしていた。あれはなんだったんだろう。なぜあんなことが可能だったのかわからない。最後はいつもボロボロになっていた。

そう、ボロボロにはなっていたのだ。十代だろうが、徹夜でマンガを読めばボロボロになる。ピンピンしているわけではない。夜どおし、マンガ喫茶の狭いブースでマンガを読み、朝の七時頃に店を出ると、朝日の強さで目が潰れそうになる。身体はこちこちになっている。その記憶はある。

カラオケで徹夜というのも、いまいち意味がわからない。昼から歌えばよくないか? 昼はそれぞれ学校やバイトが忙しかったのか? それとも単純にうれしかったのか? 自分の判断で朝まで起きていられることが? ああ?

過去の自分にメンチを切っていても仕方ないが、本当に、徹夜に対するモチベーションは分からなくなっている。絶対に徹夜などしたくない。何度でも言いたい。夜は眠るための時間だ。

高校生のとき、ドラゴンクエスト5をブッ通しの徹夜でクリアした。ぼんやりとエンディングを眺めていたら、旅立ちの村の神父に、「あなたが旅立ったのが、まるで昨日のことのように思えます」と言われた。

旅立ったの、マジで昨日なんだけど。

コントローラー片手に、しょぼしょぼした目で思っていた。「昨日のことのように」とかじゃなく、ガチの昨日。私は昨日旅立ち、今日魔王を倒した。このスピード感、もっとほめてほしい。クリーニング屋に出したシャツが戻ってくるほどの時間で世界を救う男がいるか。

まあ、神父に言っても仕方ないことではあったが。あの人、完全にドット絵だったし。

自称aikoのどうしようもなさ

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あいかわらずaikoを聴いている。

というか、この書き出しはもはやこの日記において、「あいかわらず酸素を吸っている」くらいの意味にしかならない気もするが、あいかわらず聴いている。何度聴いても、自分のことを歌っているとしか思えない。私の中にはaikoがいる。

はじめのうち、自己の内側にaikoを感じることは特殊な体験のように思えるが、やがて慣れて気にならなくなる。すると自分がaikoであることはただの常識になる。一月の次に二月が来るように、私の中にはaikoがいる。だからこの日記でも当然のように、俺はaikoだ、俺はaikoだと繰り返してきた。

しかし、人に会うとだめだ。

先日、ブログを読んでいる知人に、「上田さんは自称aikoですもんね」と言われた。それでひさしぶりに客観的な立場から自分を見た。これはやばい。自称アイドルや自称クリエイターと比べても、自称aikoのやばさは飛び抜けている。だって自称aiko、絶対にaikoじゃないでしょ。自称アイドルと言われたとき、5%くらいは「ほんとにアイドルなのかも」と思いますよ。しかし自称aikoはガチの0%。絶対にaikoじゃない。

なにかの拍子に私が逮捕されたら、京都在住の自称aikoこと上田啓太容疑者(34)とかニュースに流れるのか。やばいですね。世間にいじり倒されて、グチャグチャにされる。絶対に悪いことはしないでおこう。

自称aikoが捕まるとしたら何なのかを考えていたんだが、テトラポットに登って飛び跳ねているところを取りおさえられる、とかだろうか。あまりに不審なので近隣の住民に通報される。そして警察で意味不明な供述をする。「夏の星座にぶらさがって上から花火を見下ろそうと思った。星座があんなに遠くにあるものだとは知らなかった」。

権威としてのaiko

これも人に指摘されて気づいたんだが、気心のしれた相手と会話していると、私はほとんど自動的にaikoの話をはさみこんでいる。「それはaikoが曲中で歌ってます」とか、「あなたのその感情はまさにaiko的なモチーフです」というふうに。相手はべつにaikoのファンでもなんでもないんだが、関係ない。無差別にaikoをまき散らしている。

恋愛にかんする議論になると、私はaikoの歌詞を引用したあとで、すべての議論が終了したような顔をするらしい。ほとんど聖書でも引用するかのように、aikoの歌詞を引用している。aikoのおことばが登場して議論が打ち切られる。しかし相手からすると、aikoの歌詞はべつに究極の真理でも何でもないため、その唐突な勝利宣言にあぜんとさせられるという。

西欧のほうの学者の本では、やたらと聖書やらプラトンやらが引用されることがあるが、どうも私は、それに似た効果をaikoの歌詞に期待しているんじゃないか。権威づけとしてのaiko。あるいはトランプにおけるジョーカー。手札にあるaikoを出せば、自動的に勝利できると思っているのか。

私は、aikoのよさがわからないと人に言われてもまったく動揺しない。もはや他人の言動で自分のなかのaikoが揺らぐことはない。それはいいんだが、aikoのよさがわからないと言われたとき、私が優しく励ましてくるのがむかつくという。「大丈夫、いつか分かるようになりますよ」と、天然の上から目線でなぐさめてくるらしい。

自分の中の絶対的な軸が定まってしまったため、他の人間をすべて「いまだaikoに至れない人々」と認識してしまう。これは要するに、街角でとつぜん祈らせろと言ってくる人のようなもので、非常にろくでもない状態だと思うんだが、改善がむずかしい。他人の発言を罪の告白のように受け取ってしまう。aikoを聴いていない人のことを想像するだけで、「大丈夫、そんなあなたの中にもaikoはおられます」と、優しい気持ちがこみあげてくる。一体、なにが大丈夫なんだか。おまえの頭のほうが大丈夫か。