真顔日記

上田啓太のブログ

自称aikoのどうしようもなさ

あいかわらずaikoを聴いている。

というか、この書き出しはもはやこの日記において、「あいかわらず酸素を吸っている」くらいの意味にしかならない気もするが、あいかわらず聴いている。何度聴いても、自分のことを歌っているとしか思えない。私の中にはaikoがいる。

はじめのうち、自己の内側にaikoを感じることは特殊な体験のように思えるが、やがて慣れて気にならなくなる。すると自分がaikoであることはただの常識になる。一月の次に二月が来るように、私の中にはaikoがいる。だからこの日記でも当然のように、俺はaikoだ、俺はaikoだと繰り返してきた。

しかし、人に会うとだめだ。

先日、ブログを読んでいる知人に、「上田さんは自称aikoですもんね」と言われた。ひさしぶりに客観的な立場から自分を見た。これはやばい。自称アイドルや自称クリエイターと比べても、自称aikoのやばさは飛び抜けている。だって自称aiko、絶対にaikoじゃないでしょ。自称アイドルと言われた時だって、5%くらいは「ほんとにアイドルなのかも」と思いますよ。しかし自称aikoはガチの0%。絶対にaikoじゃない。

なにかの拍子に私が逮捕されたら、京都在住の自称aikoこと上田啓太容疑者(34)とかニュースに流れるのか。やばいですね。世間にいじり倒されて、グチャグチャにされる。絶対に悪いことはしないでおこう。

自称aikoが捕まるとしたら何なのかを考えていたんだが、テトラポットに登って飛び跳ねているところを取りおさえられる、とかだろうか。あまりに不審なので近隣の住民に通報される。そして警察で意味不明な供述をする。「夏の星座にぶらさがって上から花火を見下ろそうと思った。星座があんなに遠くにあるものだとは知らなかった」。

権威としてのaiko

これも人に指摘されて気づいたんだが、気心のしれた相手と会話していると、私はほとんど自動的にaikoの話をはさみこんでいる。「それはaikoが曲中で歌ってます」とか、「あなたのその感情はまさにaiko的なモチーフです」というふうに。相手はべつにaikoのファンでもなんでもないんだが、関係ない。無差別にaikoをまき散らしている。

恋愛にかんする議論になると、私はすぐさまaikoの歌詞を引用し、すべての議論が終了したような顔をするらしい。ほとんど聖書でも引用するかのようにaikoの歌詞を引用している。aikoのおことばが登場して議論が打ち切られる。しかし相手からすればaikoの歌詞は究極の真理でも何でもないため、その唐突な勝利宣言にあぜんとさせられるという。

西欧のほうの学者の本では、やたらと聖書やらプラトンやらが引用されるが、どうも私は、それに似た効果をaikoの歌詞に期待している節がある。権威づけとしてのaiko。あるいはトランプにおけるジョーカー。手札にあるaikoを出せば、自動的に勝利できると思っているのか。

私は、aikoのよさがわからないと人に言われても動揺しない。もはや他人の言動で自分の中のaikoが揺らぐことはない。それはいいんだが、aikoのよさがわからないと言われたとき、私が優しく励ましてくるのがむかつくという。「大丈夫、いつか分かるようになりますよ」と、天然の上から目線でなぐさめてくるらしい。

自分の中の絶対軸が定まってしまったため、他の人間をすべて「いまだaikoに至れない人々」と認識してしまう。これは要するに、街角でとつぜん祈らせろと言ってくる人のようなもので、非常にろくでもない状態だと思うんだが、改善がむずかしい。他人の発言を罪の告白のように受け取ってしまう。aikoを聴いていない人のことを想像しただけで、「大丈夫、そんなあなたの中にもaikoはおられます」と、優しい気持ちがこみあげてくる。一体、なにが大丈夫なんだか。おまえの頭のほうが大丈夫か。

かわいいは作れるけど作れない

去年の秋、近所の並木道を歩いていた。すると木の葉が落ちてきた。しかし私は気づかずに、しばらく頭に木の葉をのせたまま歩いてしまった。

その結果、化け忘れたきつねみたいになっていたんだが、あのときの自分、異常にかわいかったんじゃないか。三十すぎた男の言うことじゃないが、頭に木の葉をのせたまま歩いちゃう俺、超かわいいと思う。

もしも女の子の頭に木の葉が落ちてくる瞬間を目撃したら、それだけで好きになってしまいそうだ。たとえば対面でカフェテラスに座っていて、向こうはうれしそうに何かを話していて、その頭にひらりと木の葉が落ちてくる。その一瞬だけで恋に落ちる自信がある。その後、木の葉に気づいた女の子が、照れながら自分と視線を合わせれば最高だ。私は空を見上げて、太陽に「ありがとうッ!」と言う。なんとなく、いちばん巨大なものに感謝したいので。

大学生の頃、彼女が部屋に泊まりにきた。真夏の夜だった。私たちは二人で床に寝そべり、彼女の持ってきたミッキーマウスのジグソーパズルを作っていた。われわれはひさしぶりのパズルに夢中になり、黙々と作りつづけた。

集中して二時間ほどが過ぎた。ふと横を見ると、彼女はパズルを作る姿勢のまま眠っていた。そして二の腕に、パズルのピースが一枚貼りついていた。その瞬間、自分の中にある「好き」の質が変わる音がきこえた。二の腕にパズルのピースを貼りつけたままスッピンでねむる女が、とてつもなくかわいく見えた。

ぐうぜん木の葉が落ちてきたり、パズルのピースが貼りついていたとき、胸がときめく。かわいい、と感じる。しかし一方で、世の中には「かわいいは作れる」という言葉がある。このときに言われる「かわいい」と、ぐうぜん落ちてきた木の葉を見て感じる「かわいい」は何が違うのか?

一般性と特別性

「かわいいは作れる」という言葉を、私はうそだとは思わない。たしかに、かわいいは作れる。それは化粧や服装や表情の技術である。もちろん「かっこいいは作れる」と言い換えてもいい。かわいさにしろ、かっこよさにしろ、そこにはパターンがあり、自覚的な努力によって作り出せる。これは単純な事実である。

問題は、それがどこまでいっても「一般性」をこえないことにある。一般性はそもそものはじめから「みんな」で共有するために用意されている。それは個人的な関係のためには用意されていない。

一般性を極めていったときに生まれるのは、「誰にも文句の付けようのない魅力」であり、「大勢の人間にちやほやされること」であり、そのとき人は大量の好意的な視線にさらされながら、深い孤独に沈む。そこには「特別な関係」が何もないからである。そのことを知らなければ、長く苦しい努力のはてに絶叫することになる。

「自分がほしかったのは、こんなものじゃない!」

一般性と特別性のちがいを見失ったときに悲劇は生まれる。特別な誰かがほしくて、ただ一人の特別な誰かに認めてほしくて、一般的な価値観をもとに自分を磨きつづける。それは外見を磨くことかもしれない。年収や肩書にこだわることかもしれない。だが、その先に「特別な関係」など待っていないのだ。

この世には二種類の「好き」があると言ってもいい。一般性の先に生まれる「好き」が「誰からも好かれるあなたが好き」だとするならば、特別な関係を生み出すのは「私だけが知っているあなたの好きなところ」だろう。

aikoへと向かう強い流れを感じる。激しい渦が文章を飲み込もうとしており、その渦の中心には常にaikoがいるのだ。一つ目の段落をまたいだ時点ですでに私はaikoのことを考えていた。抵抗することはできない。飲み込まれるしかない。私はaikoの話をしなければならない。

あたしだけが知っている
あなたの特別なとこ
心の隅において 時々開けるの

aiko『リズム』

aikoはいかにして特別性を歌ったか?

aikoという歌手は、デビューから一貫して「特別性」を歌い続けてきた人である。初期の代表曲である『カブトムシ』では、それは以下のような歌詞に表現されている。

息を止めて見つめる先には
長いまつげが揺れてる

aikoは本当にひんぱんに「あなた」を見つめるのだが、その時、見つめられる「あなた」が非常にささやかな細部としてあらわれるところに特徴がある。ここでは「揺れる長いまつげ」である。

なぜ、まつげが揺れていることが分かるのか。aikoが「あなた」の横顔を見つめているからである。「あなた」自身、自分のまつげが揺れていることに気づいていないのだ。その瞬間をaikoは息を止めて見つめる。これが、aikoの「好き」が生まれる現場である。aikoが恋に落ちるのは「あなた」が見せる無防備な一瞬なのだ。

2006年発表の『シーソーの海』では、この視線はさらなる進化を遂げている。

あなたの鼻先にとまる真夏の汗に恋をする

もはや「あなた」の身体の部位である必要すらなく、ただ鼻先にとまったというだけで真夏の汗すら恋の対象となる。これがaiko的視線のひとつの極みであり、aiko的世界の完成である。では、この視線が生んだ恋が成就したとき、愛し合う二人をaikoはどのように描写するのか。それは『ロージー』の歌詞を見ればわかる。

あなたとあたしは恋人なのよ
その八重歯も この親指も
全部二人のものだってこと

aikoが二人のものだとするのは、あなたの八重歯であり、自分の親指である。社会的に価値を認められていないささやかなものに、aikoは二人だけの価値を見出す。それがaikoの歌い続ける「特別な関係」である。

しかし、やがて特別な関係にも終わりの時がくるだろう。この残酷な認識もまたaiko的なものである。「あなた」は「あたし」のもとを去っていく。「あなた」は思い出のなかの存在となってしまう。『えりあし』という曲でaikoが歌うのは、恋人が記憶となった後のことである。そのとき、記憶のなかの「あなた」を、aikoはどのように描写するのか。

一度たりとも忘れた事はない
少しのびた襟足を
あなたのヘタな笑顔を

美容院で襟足をきれいに整えることはできる。魅力的な笑顔を身に付けるトレーニングさえある時代だ。しかしaikoの記憶に焼き付いているのは「少しのびた襟足」であり、「あなたのヘタな笑顔」なのである。aikoにとって「あなた」が他の誰とも替えがたいものになるのは、絶対に忘れられないものになるのは、特別な視線によって「あなた」を認識し、記憶するからである。

やがてaikoは別れた「あなた」と再会することもあるだろう。そのときaikoはどこに昔の面影を見出すのだろうか? そんなことは『気付かれないように』の歌詞を見れば一発で分かる。

今の彼女すごく好きだよと
照れて髪をさわる
昔のあなたを見た

照れて髪をさわる仕草に、aikoは「昔のあなた」を見つける。片想いのときも、両思いのときも、記憶となったときも、やがて再会したときも、aikoはつねに特別な視線によって「あなた」を見つめている。その先にあるのは揺れる長いまつげであり、鼻先にとまる真夏の汗であり、八重歯であり、親指であり、少しのびた襟足であり、ヘタな笑顔であり、照れて髪をさわる仕草である。

これらは果たして「作れる」か?

問うまでもない。aikoの視線の先にあるのは常に「作れないもの」なのだ。作れないものだから「あなた」は固有性を獲得する。特別なものになる。自分にとってたいせつな存在になる。これがaikoの歌い続ける「恋愛」である。これがaiko的世界における「恋愛」の定義である。だからこそ私は、aikoという思想のひとつの受肉としての私は、断固として言わなければならない。かわいいは作れるが、作れないのだと。

aikoを聴きすぎると人はどうなるのか?

去年はaikoを聴き続けた一年だった。今年も聴き続ける一年になるのだろう。

日常的にaikoを聴いていると、世界の見え方が変わりはじめる。aikoの歌詞世界をもとに世の事象を眺めるようになる。さっきも地下鉄のホームでカップルが見つめあっているのを見て、「いやいやaikoじゃないんだから」と思っていた。しかし、これは自分のほうがおかしい。aikoじゃないんだからも何も、実際にあれはaikoじゃない。aikoとして認識するハードルが下がりすぎている。

先日、aiboに関するネットニュースを見て、反射的にaikoと読み間違えた。同じように間違えた人はけっこういるようだった。なので私のような人間は、そりゃ間違える。むしろ間違えないほうがおかしい。間違えたことを誇りにすら思う。aiboとaikoを簡単に見分けられるような男にはなりたくない。そのときはヘッドホンを置いて、aikoを聴くことから引退する。

ただ数日後、ニュースの見出しを見ていたとき、今度はauの二文字をaikoと間違えて、これは自分でもどうかと思った。「a」さえありゃいいのか。さすがに誇りに思えない。たんにボケてきてんじゃないか。自分の認知が心配になる。将来、なんでもaikoに見えるじじいとして死ぬ可能性が出てきた。看護師さんに「あんたaikoかえ?」とか言ってしまう。

街を歩いている時は、音楽プレイヤーも何もないのに、頭のなかをaikoの曲がずっと流れている。昨日は信号待ちをしている最中、『自転車』という曲がずっと流れており、一人で感極まっていた。なんとなく、ひとつの境地に達した感がある。剣を極めて剣を捨てることに似てきた。もはやイヤホンは不要、aikoは常に心に流れているということか。

あと、このあいだ夢にaikoが出てきて、二人でひたすら恋愛について議論していたんだが、これが一番やばいでしょ。体感として二時間ほどあった。居酒屋のような場所でaikoと恋愛論を戦わせていた。かなり白熱していた。大変だった。

だいたい、aikoと議論したとか言ってるが、夢に出てくるaikoというのは、aikoの姿をとった私ですからね。自分の無意識がaikoとしてあらわれている。いちおう見かけは自分とaikoだが、実際はたんなる自分と自分なわけで、「そうは言いますけどねaikoさん!」とかハイボール片手に興奮ぎみで言っていたが、そのaikoさんはおまえだ。

aikoを聴き続けることは、自分の心の中にaikoを作り出すことで、そうして生まれたaikoをメディア等に登場する実際のaikoに投影することでもあるんだが、もちろん実際のaikoは、頭の中のaikoとはズレている。面白いのは、このモチーフ自体がまさにaiko的だということだろう。こうしてaikoを聴くという行為がaiko的世界に吸収され、円環は閉じられる。

しかしまあ、とりあえず夢のなかでの議論は完全な一人相撲だったと思う。あれはひどかった。あそこまでの一人相撲は珍しかった。恥ずかしくなるほどの一人相撲。あ、「ひとりずもう」って書くとaikoの曲にありそう。

スラムダンクの深津をほめるおじさんについて

スラムダンクの深津をほめるおじさんについて書きたい。

そのためには、まずスラムダンクの説明をしなければいけないが、これはまあいいだろう。九十年代を代表するバスケ漫画である。読んだことのない人も題名くらいは知っていると思います。

次に深津である。これは少し説明が必要かもしれない。湘北高校が物語の最後で対戦する相手、山王工業のキャプテンだ。

深津は作中で一度も笑顔を見せない。徹底的にクールなキャラクターとして描かれている。ちなみに語尾は「ピョン」。このへんは作者のバランス感覚だろう。どこかに隙を作らないと怖すぎると思ったのではないか。

これくらいで準備はいいだろう。ということで、今回の主題である「スラムダンクの深津をほめるおじさん」の話だ。これは作中に少しだけ登場するキャラクターなのである。画像を引用しておこう。完全版20巻52ページ。

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「深津だ。いつも黒子役に徹する深津のパスがあっての山王工業だ」

中学時代から二十年、私は折にふれてスラムダンクを読み返しているから、そのたびにハマるキャラ、好きなシーンも変化しているんだが、今はこの「深津をほめるおじさん」が面白くてたまらない。たしかに、深津のような影の主役タイプをやたらと評価したがるのは、こういうおじさんなのである。

ちなみに、このおじさんの前には、こんな二人が出てくる。山王のエースである沢北をほめる女と、山王のセンターである河田をほめる男である。

資料1:沢北さんが大好きな女

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資料2:河田のプレイにスカッとする男

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この二人からのおじさんなのだ。

イケメンのスタープレイヤーである沢北を若い女子がほめる。これは「恋愛対象として見る」ことである。マッチョなパワープレイヤーである河田を若い男がほめる。これは「投影の対象として見る」ことである。

「好き!」と言う女、「スカッとする!」と言う男、しかし深津をほめるおじさんに、そんな感情的な言葉はない。

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おじさんの目は、スターの輝きやパワープレイヤーの迫力に幻惑されない。おじさんは派手な表層の下にある構造を見る。当然、口調は「深津だ」になる。他の二人と比べてみればよい。「大好き!」「スカッとするもん!」からの「深津だ」。まったくちがう。一人だけビックリマークがつかない。冷静そのもの。

見た目の造形も秀逸である。ひげに意味がある。しわに意味がある。ただの無精ではない。すべては強烈なこだわりの結果である。このおじさんには「思想」があるのだ。

作中、深津をほめるおじさんはもう一度登場する。

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ここでも深津をほめている。

ほめるところは「深津の視野の広さ」である。ここに深津をほめるおじさんの深津への強い感情移入が見え隠れしている。おじさんは深津に自分を重ねているのだ。

深津をほめるおじさんがアイドルやサッカーを語るとどうなるか

ここで一旦、スラムダンクを離れ、「深津をほめるおじさん」を他の場所に連れ出してみよう。例えば、このおじさんがアイドルをほめる場合はどうなるか。おそらく個々のメンバーには言及しないだろう。「あれはだな、意外と楽曲が凝っていてだな……」という切り出しで、過去の洋楽からの影響を指摘するにちがいない。

サッカー日本代表について語らせれば、言及するのは監督の戦略である。誰の顔がカッコイイ、誰のゴールがスゴかったと盛り上がる若者たちを制して一言、

「戦略だ。戦略の勝利だ」

「いや、そんなこと聞いてないんだけど…」と戸惑う若者をよそに、深津をほめるおじさんは滔々と持論を述べ立てることだろう。

「今回のゲームにおいて何よりも評価されるべきは相手の性質を的確に見抜いた監督の〇〇、そして目立たないが良い動きをすることで終始チームに貢献した△△、二点目に関して褒められるべきはシュートを打った□□ではなく最小限の動きでDFを引きつけた●●と言える。ちなみに▲▲に関しては及第点、全盛期のキレを知っている私からすればとても満足のいく出来とは言えないが復調の兆しが見えたことを前向きな材料と捉えたい」

このへんでまわりから人が消えている。

「山王を30年見ているおじさん」もいる

スラムダンクに戻ろう。

同じ完全版20巻には、「山王を30年見ているおじさん」も登場している。

こちらもコマを引用しておこう。

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「オレは30年山王を見てるが、今年の山王はいいぞ」

このおじさんも、私の中では深津をほめるおじさんと同じ箱に入っている。

というか、ほとんど同じ顔である。深津をほめるおじさんはポロシャツ、山王を30年見ているおじさんはラウンドネックだが、それ以外は一緒と言っていいだろう。こういうおじさんは絶対に髭を生やすのだ。そして口ひげと顎ひげをつなぎはじめる。

ちなみに、30年山王を見ているおじさんも、作中でもう一度出てくる。河田が豪快にダンクを決めた直後である。

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「やってくれるわ河田の奴!! ははっ」

冷静なおじさんが、河田のスカッとするプレイに興奮している姿。ここに私は、おじさんのもうひとつの顔を見て、すこし照れる。楽曲派を自認していたアイドルオタクのおじさんが、いざ握手会となるとデレデレするようなものだろうか。

以上である。

無事にスラムダンクの深津をほめるおじさんについて書くことができたが、まあ、本当に細かいところに入りこんでる気がしますね。いきなり口調が変わってすみませんが、なんなんですかね、この文章は。

第一、あれだけ語りどころのあるスラムダンクで、深津をほめるおじさんに言及するということ自体が、ものすごく深津をほめるおじさん的な行為でしょう。私も三十をすぎて、着々と深津をほめるおじさん化しているということでしょうか。

ということで、ニーチェで締めようと思います。

深津をほめるおじさんって、ブログをニーチェで締めたがりそうじゃないですか?

 おまえが深津をほめるおじさんを覗くとき
 深津をほめるおじさんもまたおまえを覗いているのだ

 ニーチェ 

 

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