真顔日記

上田啓太のブログ

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自称aikoのどうしようもなさ

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あいかわらずaikoを聴いている。

というか、この書き出しはもはやこの日記において、「あいかわらず酸素を吸っている」くらいの意味にしかならない気もするが、あいかわらず聴いている。何度聴いても、自分のことを歌っているとしか思えない。私の中にはaikoがいる。

はじめのうち、自己の内側にaikoを感じることは特殊な体験のように思えるが、やがて慣れて気にならなくなる。すると自分がaikoであることはただの常識になる。一月の次に二月が来るように、私の中にはaikoがいる。だからこの日記でも当然のように、俺はaikoだ、俺はaikoだと繰り返してきた。

しかし、人に会うとだめだ。

先日、ブログを読んでいる知人に、「上田さんは自称aikoですもんね」と言われた。それでひさしぶりに客観的な立場から自分を見た。これはやばい。自称アイドルや自称クリエイターと比べても、自称aikoのやばさは飛び抜けている。だって自称aiko、絶対にaikoじゃないでしょ。自称アイドルと言われたとき、5%くらいは「ほんとにアイドルなのかも」と思いますよ。しかし自称aikoはガチの0%。絶対にaikoじゃない。

なにかの拍子に私が逮捕されたら、京都在住の自称aikoこと上田啓太容疑者(34)とかニュースに流れるのか。やばいですね。世間にいじり倒されて、グチャグチャにされる。絶対に悪いことはしないでおこう。

自称aikoが捕まるとしたら何なのかを考えていたんだが、テトラポットに登って飛び跳ねているところを取りおさえられる、とかだろうか。あまりに不審なので近隣の住民に通報される。そして警察で意味不明な供述をする。「夏の星座にぶらさがって上から花火を見下ろそうと思った。星座があんなに遠くにあるものだとは知らなかった」。

権威としてのaiko

これも人に指摘されて気づいたんだが、気心のしれた相手と会話していると、私はほとんど自動的にaikoの話をはさみこんでいる。「それはaikoが曲中で歌ってます」とか、「あなたのその感情はまさにaiko的なモチーフです」というふうに。相手はべつにaikoのファンでもなんでもないんだが、関係ない。無差別にaikoをまき散らしている。

恋愛にかんする議論になると、私はaikoの歌詞を引用したあとで、すべての議論が終了したような顔をするらしい。ほとんど聖書でも引用するかのように、aikoの歌詞を引用している。aikoのおことばが登場して議論が打ち切られる。しかし相手からすると、aikoの歌詞はべつに究極の真理でも何でもないため、その唐突な勝利宣言にあぜんとさせられるという。

西欧のほうの学者の本では、やたらと聖書やらプラトンやらが引用されることがあるが、どうも私は、それに似た効果をaikoの歌詞に期待しているんじゃないか。権威づけとしてのaiko。あるいはトランプにおけるジョーカー。手札にあるaikoを出せば、自動的に勝利できると思っているのか。

私は、aikoのよさがわからないと人に言われてもまったく動揺しない。もはや他人の言動で自分のなかのaikoが揺らぐことはない。それはいいんだが、aikoのよさがわからないと言われたとき、私が優しく励ましてくるのがむかつくという。「大丈夫、いつか分かるようになりますよ」と、天然の上から目線でなぐさめてくるらしい。

自分の中の絶対的な軸が定まってしまったため、他の人間をすべて「いまだaikoに至れない人々」と認識してしまう。これは要するに、街角でとつぜん祈らせろと言ってくる人のようなもので、非常にろくでもない状態だと思うんだが、改善がむずかしい。他人の発言を罪の告白のように受け取ってしまう。aikoを聴いていない人のことを想像するだけで、「大丈夫、そんなあなたの中にもaikoはおられます」と、優しい気持ちがこみあげてくる。一体、なにが大丈夫なんだか。おまえの頭のほうが大丈夫か。

かわいいは作れるけど作れない

去年の秋、近所の並木道を歩いていた。すると木の葉が落ちてきた。しかし私は気づかずに、しばらく頭に木の葉をのせたまま歩いてしまった。その結果、私は化け忘れたきつねみたいになっていたんだが、あのときの自分、異常にかわいかったんじゃないか。三十すぎた男の言うことじゃないが、頭に木の葉をのせたまま歩いちゃう俺、超かわいいと思う。

もしも女の子の頭に木の葉が落ちてくる瞬間を目撃したら、それだけで好きになってしまいそうだ。たとえば対面でカフェテラスに座っていて、向こうはうれしそうに何かを話していて、その頭にひらりと木の葉が落ちてくる。その一瞬だけで恋に落ちる自信がある。その後、木の葉に気づいた女の子が、照れながら自分と視線を合わせれば最高だ。私は空を見上げて、太陽に「ありがとうッ!」と言う。なんとなく、いちばん巨大なものに感謝したいので。

大学生の頃、彼女が部屋に泊まりにきた。真夏の夜だった。私たちは二人で床に寝そべり、彼女の持ってきたミッキーマウスのジグソーパズルを作っていた。われわれはひさしぶりのパズルに夢中になり、黙々と作りつづけた。

集中して二時間ほどが過ぎた。ふと横を見ると、彼女はパズルを作る姿勢のまま眠っていた。そして二の腕に、パズルのピースが一枚貼りついていた。その瞬間、自分の中にある「好き」の質が変わる音がきこえた。二の腕にパズルのピースを貼りつけたままスッピンでねむる女が、とてつもなくかわいく見えた。

ぐうぜん木の葉が落ちてきたり、パズルのピースが貼りついていたとき、胸がときめく。かわいい、と感じる。しかし一方で、世の中には「かわいいは作れる」という言葉がある。このときに言われる「かわいい」と、ぐうぜん落ちてきた木の葉を見て感じる「かわいい」は何が違うのか?

一般性と特別性

「かわいいは作れる」という言葉を、私はうそだとは思わない。たしかに、かわいいは作れる。それは化粧や服装や表情の技術である。もちろん「かっこいいは作れる」と言い換えてもいい。かわいさにしろ、かっこよさにしろ、そこにはパターンがあり、自覚的な努力によって作り出せる。これは単純な事実である。

問題は、それがどこまでいっても「一般性」をこえないことにある。一般性はそもそものはじめから「みんな」で共有するために用意されている。それは個人的な関係のためには用意されていない。

一般性を極めていったときに生まれるのは、「誰にも文句の付けようのない魅力」であり、「大勢の人間にちやほやされること」であり、そのとき人は大量の好意的な視線にさらされながら、深い孤独に沈む。そこには「特別な関係」が何もないからである。そのことを知らなければ、長く苦しい努力のはてに絶叫することになる。

「自分がほしかったのは、こんなものじゃない!」

一般性と特別性のちがいを見失ったときに悲劇は生まれる。特別な誰かがほしくて、ただ一人の特別な誰かに認めてほしくて、一般的な価値観をもとに自分を磨きつづける。それは外見を磨くことかもしれない。年収や肩書にこだわることかもしれない。だが、その先に「特別な関係」など待っていないのだ。

この世には二種類の「好き」があると言ってもいい。一般性の先に生まれる「好き」が「誰からも好かれるあなたが好き」だとするならば、特別な関係を生み出すのは「私だけが知っているあなたの好きなところ」だろう。

aikoへと向かう強い流れを感じる。激しい渦が文章を飲み込もうとしており、その渦の中心には常にaikoがいるのだ。一つ目の段落をまたいだ時点ですでに私はaikoのことを考えていた。抵抗することはできない。飲み込まれるしかない。私はaikoの話をしなければならない。

あたしだけが知っている
あなたの特別なとこ
心の隅において 時々開けるの

aiko『リズム』

aikoはいかにして特別性を歌ったか?

aikoという歌手は、デビューから一貫して「特別性」を歌い続けてきた人である。初期の代表曲である『カブトムシ』では、それは以下のような歌詞に表現されている。

息を止めて見つめる先には
長いまつげが揺れてる

aikoは本当にひんぱんに「あなた」を見つめるのだが、その時、見つめられる「あなた」が非常にささやかな細部としてあらわれるところに特徴がある。ここでは「揺れる長いまつげ」である。

なぜ、まつげが揺れていることが分かるのか。aikoが「あなた」の横顔を見つめているからである。「あなた」自身、自分のまつげが揺れていることに気づいていないのだ。その瞬間をaikoは息を止めて見つめる。これが、aikoの「好き」が生まれる現場である。aikoが恋に落ちるのは「あなた」が見せる無防備な一瞬なのだ。

2006年発表の『シーソーの海』では、この視線はさらなる進化を遂げている。

あなたの鼻先にとまる真夏の汗に恋をする

もはや「あなた」の身体の部位である必要すらなく、ただ鼻先にとまったというだけで真夏の汗すら恋の対象となる。これがaiko的視線のひとつの極みであり、aiko的世界の完成である。では、この視線が生んだ恋が成就したとき、愛し合う二人をaikoはどのように描写するのか。それは『ロージー』の歌詞を見ればわかる。

あなたとあたしは恋人なのよ
その八重歯も この親指も
全部二人のものだってこと

aikoが二人のものだとするのは、あなたの八重歯であり、自分の親指である。社会的に価値を認められていないささやかなものに、aikoは二人だけの価値を見出す。それがaikoの歌い続ける「特別な関係」である。

しかし、やがて特別な関係にも終わりの時がくるだろう。この残酷な認識もまたaiko的なものである。「あなた」は「あたし」のもとを去っていく。「あなた」は思い出のなかの存在となってしまう。『えりあし』という曲でaikoが歌うのは、恋人が記憶となった後のことである。そのとき、記憶のなかの「あなた」を、aikoはどのように描写するのか。

一度たりとも忘れた事はない
少しのびた襟足を
あなたのヘタな笑顔を

美容院で襟足をきれいに整えることはできる。魅力的な笑顔を身に付けるトレーニングさえある時代だ。しかしaikoの記憶に焼き付いているのは「少しのびた襟足」であり、「あなたのヘタな笑顔」なのである。aikoにとって「あなた」が他の誰とも替えがたいものになるのは、絶対に忘れられないものになるのは、特別な視線によって「あなた」を認識し、記憶するからである。

やがてaikoは別れた「あなた」と再会することもあるだろう。そのときaikoはどこに昔の面影を見出すのだろうか? そんなことは『気付かれないように』の歌詞を見れば一発で分かる。

今の彼女すごく好きだよと
照れて髪をさわる
昔のあなたを見た

照れて髪をさわる仕草に、aikoは「昔のあなた」を見つける。片想いのときも、両思いのときも、記憶となったときも、やがて再会したときも、aikoはつねに特別な視線によって「あなた」を見つめている。その先にあるのは揺れる長いまつげであり、鼻先にとまる真夏の汗であり、八重歯であり、親指であり、少しのびた襟足であり、ヘタな笑顔であり、照れて髪をさわる仕草である。

これらは果たして「作れる」か?

問うまでもない。aikoの視線の先にあるのは常に「作れないもの」なのだ。作れないものだから「あなた」は固有性を獲得する。特別なものになる。自分にとってたいせつな存在になる。これがaikoの歌い続ける「恋愛」である。これがaiko的世界における「恋愛」の定義である。だからこそ私は、aikoという思想のひとつの受肉としての私は、断固として言わなければならない。かわいいは作れるが、作れないのだと。

aikoを聴きすぎると人はどうなるのか?

まとめ?(通常盤)

去年はaikoを聴き続けた一年だった。今年も聴き続ける一年になるのだろう。

日常的にaikoを聴いていると、世界の見え方が変わりはじめる。aikoの歌詞世界をもとに世の事象を眺めるようになる。ついさっきも、地下鉄のホームでカップルが見つめあっているのを見て、「いやいやaikoじゃないんだから」と思っていた。しかしこれは自分のほうがおかしい。aikoじゃないんだからも何も、実際にあれはaikoじゃない。aikoだと認識するハードルが下がりすぎている。

先日、aiboに関するネットニュースを見て、反射的にaikoと読み間違えた。同じように間違えた人はけっこういるようだった。なので私のような人間は、そりゃ間違える。むしろ間違えないほうがおかしい。間違えたことを誇りにすら思う。aiboとaikoを簡単に見分けられるような男にはなりたくない。そのときはヘッドホンを置いて、aikoを聴くことから引退する。

ただ数日後、またニュースの見出しをざーっと見ていたとき、今度はauの二文字をaikoと見間違えて、これは自分でもどうかと思った。「a」さえありゃいいのか。さすがに誇りにも思えない。たんにボケてきてんじゃないか。自分の認知が心配になる。将来、なんでもaikoに見えるじじいとして死ぬ可能性が出てきた。看護師さんに「あんたaikoかえ?」とか言ってしまう。

街を歩いている時は、音楽プレイヤーも何もないのに、頭のなかをaikoの曲がずっと流れている。昨日は信号待ちをしている最中、『自転車』という曲がずっと流れており、一人で感極まっていた。なんとなく、ひとつの境地に達した感がある。剣を極めて剣を捨てることに似てきた。もはやイヤホンは不要、aikoは常に心に流れているということか。

あと、このあいだ夢にaikoが出てきて、二人でひたすら恋愛について議論していたんだが、これが一番やばいでしょ。体感として二時間ほどあった。居酒屋のような場所でaikoと恋愛論を戦わせていた。かなり白熱していた。大変だった。

だいたい、aikoと議論したとか言ってるが、夢に出てくるaikoというのは、aikoの姿をとった私ですからね。自分の無意識がaikoとしてあらわれている。いちおう見かけは自分とaikoだが、実際はたんなる自分と自分なわけで、「そうは言いますけどねaikoさん!」とかハイボール片手に興奮ぎみで言っていたが、そのaikoさんはおまえだ。

aikoを聴き続けることは、自分の心の中にaikoを作り出すことで、そうして生まれたaikoをメディア等に登場する実際のaikoに投影することでもあるんだが、もちろん実際のaikoは、頭の中のaikoとはズレている。面白いのは、このモチーフ自体がまさにaiko的だということだろう。こうしてaikoを聴くという行為がaiko的世界に吸収され、円環は閉じられる。

しかしまあ、とりあえず夢のなかでの議論は完全な一人相撲だったと思う。あれはひどかった。あそこまでの一人相撲は珍しかった。恥ずかしくなるほどの一人相撲。あ、「ひとりずもう」って書くとaikoの曲にありそう。

aikoの歌詞の怖さについて

秋 そばにいるよ (通常盤)

aikoは常に「あたしとあなた」のことを歌う。そしてaikoを聴くとき、私は男でありながら「あたし」になっている。この話は何度か書いた。私のなかに住む背の低い女をaikoが引きずりだしてきたという話である。aikoの音楽の前では、私は平気で性別を飛び越えて、「俺はaikoだ」と断言してしまえる。「俺とはaikoの別名だったのだ」と言ってしまえる。

それはまあ、いいだろう(社会的にはよくないが)。

さて、私は男として生きている。つまりaikoの曲を「あなた」の立場で聴くことも可能だということだ。しかし、「あなた」の立場でaikoの曲を聴くことは怖い。

怖さのひとつは、いわゆる「女の計算の怖さ」なんだが、これは今回の主題ではない。それでもいちおう具体例をあげておくと、

 愛しい人よ
 くるくると表情を変えながら
 あたしの手のひらの上にいてね
『恋人同士』

 あなたが悲しくなった時
 見計らって逢いに行ければ
 きっと心を見透かされた様で
 あたしが気になるでしょう?
『愛の世界』

女のしたたかさ。これは怖いっちゃあ怖いが、気軽に共有可能な怖さだという印象がある。「いや~、女って生き物は怖いね~」と簡単に言える怖さだということだ。しかしaikoが本当に怖くなり、そして凄くなるのは、「あなたはあたしのすべてなの」(『何処へでも行く』)のほうなのだ。女の打算と女の愛、どちらが怖いかといえば、私は女の愛のほうが怖い。女の愛はその極点において、男に神であることを求めるからだ。

aikoにとって、あなたは「すべて」である。だからこそ以下のような歌詞も生まれる。

 あなたの首筋に噛みついて
 絶対離れはしないよ
『愛の世界』

これは、河原の石にへばりつくヒルの発想ではないのか。『愛の世界』と名づけられた曲に、なぜこんな一節が紛れこんでしまうのか。aikoが怖ろしいのは突然こんなことを言いはじめるところだ。愛をきれいごとで済ませないところだ。強い愛は相手を破壊するほどの力を秘めていると暴露するところだ。「あなた」の立場で聴くと、それが怖い。

『心に乙女』の歌詞について

四枚目のアルバム『秋 そばにいるよ』には、『心に乙女』という曲が収録されている。そこに一切の打算はなく、淡々と愛が歌われる。

 宇宙の隅に生きるあたしの大きな愛は
 今日まで最大限に注がれて
 それは消える事なく
 あたしの大きな愛が
 あなたを締め付けてゆく

「締め付けてゆく」という言葉のチョイスはやはりおかしくて、これはニシキヘビの動きか何かを記述するときの表現ではないのか。「あたしの大きな愛」を主語とした時、なぜそれが「あなたを締め付けてゆく」に続いてしまうのか。この文脈で「締め付ける」という言葉を使えば、社会的に良い意味にはなるはずがない。

「宇宙の隅に生きるあたしの大きな愛」の時点では、宇宙から見ればちっぽけな自分のなかに何よりも大きな愛があるという話だ。そこまでならば美しい話だ。「それほどあなたのことが好き」と言われれば、喜ぶ男もいるかもしれない。しかしこの文の着地点は、「あなたを締め付けてゆく」だ。それでも素直に喜べるか? 「おまえの愛に締め付けられて最高!」と言えるのか?

歌詞は次のように続く。

もっともっと注いで

「あなたを締め付けてゆく」からの「もっともっと注いで」であり、男の視点でこの歌を聴いたときに自分の中に生まれる感情が「怖い」である。それは自分というものが限界まで絞りとられていく感覚、跡形もなくなるまで絞りとられていく感覚である。

宇宙の隅に生きるあたしの大きな愛は
今日まで最大限に注がれて

しかも、それは「今日まで最大限に注がれた」のだ。にもかかわらず、aikoは「もっともっと注いで」と言っているのだ。それだけの要求を突き付けられても、男は元気よく「注いでやろう!」と言えるのか?

『心に乙女』にはこんな歌詞もある。

 今夜もお願いする
「今日も愛してくれる?」

「今夜も」であり「今日も」である。この「も」が怖いのであり、この「も」こそがaikoなのだ。aikoの「も」に終わりはない。翌日もaikoは「今日も愛してくれる?」と言うだろう。その翌日も翌々日も「今日も愛してくれる?」と言うだろう。aikoの「も」が時とともに磨り減らされることはない。こんな曲がアルバムの最後にぽつんと置かれて、最低限のアレンジで淡々と歌われる。しかもタイトルは『心に乙女』だ。心に乙女があれば何をしてもいいのか!

aikoのしたたかさの背後にあるもの

冒頭に挙げたように、aikoにはしたたかさがある。しかしaikoのしたたかさは、常に「深い愛」に裏付けられている。それが怖いということだ。したたかさの背後に「男の金・地位・見た目」があるならば平凡な話だ。それは取り替え可能だ。年収・肩書・外見はどれも相対的なものだ。それは「男と女」の話だ。

しかしaikoは「あたしとあなた」の話しかしない。aikoは恋愛のことを歌うが、それは常に「男と女」ではなく「あたしとあなた」の話なのである。その証拠に、aikoは200以上ある楽曲のなかで、一度も「男」という言葉を使っていない(私は調べた)。

aikoに「男」はおらず、「あなた」しかいない。「男」は取り替え可能だ。「あなた」は取り替え不能だ。「あなた」はパラメータやスペックに還元できない。だからこそ「首筋に噛みついて絶対に離れない」のであり、「あたしの大きな愛があなたを締め付けてゆく」のだ。他の誰かでもいいとは思えないからこそ、aikoの愛は暴力になるのだ。

私はaikoのように誰かを愛することは良しとする。その時、私は自分の内側にある面倒くさくて重たい部分をaikoに託している。そのとき出てくるのが「俺はaikoだ」という言葉である。しかしその暴力性を自覚するからこそ、aikoのような愛を自分に向けられることを想像すると、ひるむ。それは重いし、きついし、怖い。だから私は「あたし」としてaikoを聴くことはできても、「あなた」として聴くことはできない。

結び

aikoが自分の気持ちの重さを自覚し、そのことに葛藤するとき、力と力のぶつかりあいが曲を盛り上げていく。そのとき生まれるのは壮大なバラードである。それはたとえば、以前書いた『秘密』という曲である。

そしてaikoがただ淡々と気持ちを重くしてゆくとき、簡素なアレンジの小曲が生まれる。それは深夜四時に静かな部屋で歌われるような音楽である。そこに見かけの派手さはなく、ただ「あなた」に向けて重くなる感情だけがある。それが『心に乙女』という曲であり、aikoのもっとも凄く、同時に怖い部分なのである。

スタバでaikoを聴いていたら隣にaiko的世界が生まれていた

まとめ?(通常盤)

スタバでaikoを聴きながら文章を書いていた。これは単なる私の日常である。

隣の席には高校生カップルが座っていた。問題集をひらいて二人で勉強している。これもよくある光景だ。なので私はとくに気にせず、aikoを聴きながら文章を書き続けていた。

集中して三十分ほど、一息つこうとイヤホンを外した。隣には、まだ同じカップルがいた。会話が聞こえてきた。

「〇〇ちゃんとなんで別れたんよお」
「なんかちゃうかってんもん」
「あの子ええ子やん」
「あかんねん、なんか」
「ふうん」
「もうええねん、新しい恋したいわあ」

私は勝手にこの二人をカップルだと思っていたが、会話の内容からすると付き合っていないようだった。というか、男のほうは別に彼女がいたんだが、最近別れた。それを目の前の女友達に愚痴っているという状況のようだった。

しかし、である。女のほうは絶対に男のことが好きだった。それは声色や表情から判断された。なのに男のほうは無神経で、彼女と別れたことや、次はどんな女がいいかということを、べらべらと喋りつづけている。

これはaiko的状況だと思ったッッッ!

いや、いきなり興奮されて、みなさんビクッとなったかもしれない。猟銃を取りに走ったかもしれない。それは申し訳ない。おどかすつもりはなかった。興奮してしまっただけだ。あらためて言わせてほしい。

これはaiko的状況だと思ったッッッ!

私は店内で真顔のまま興奮していた。イヤホンでaikoを聴いていたら、隣にaiko的状況が生まれている。発生している。勃発している。これが興奮せずにいられるか!

「あなた」は別の女の子のことが好きで、「あたし」は友達にすぎなくて、「あたし」はずっと「あなた」を見ているのに、「あなた」は気づかずに、無関係な「あの子」を見ている。私は学者が書庫から該当する書物の1ページを探すように高速でiPhoneを操作し、該当するaikoの一曲を探しはじめていた。

周りに集まった友達
何も言ってくれないのは
あなたのそのまなざしが
遠くのあの子映したから

『相合傘』

これだッッッ!

手元の銃を降ろして、もうすこし話を聞いてほしい。

恋愛とは三角関係である。だからaikoの曲にはしばしば「あの子」の存在がよぎる。たとえば『相合傘』においては、男の瞳には「あの子」が映っている。aikoは「あなたの瞳に何が映るか?」に強くこだわる女である。恋愛とは要するに視線の奪い合いだと知っているからである。「あなた」の視線はなかなか「あたし」を向かない。それどころか「あなた」は「あの子」に視線を向けている。この過酷な状況において、aikoは数々の楽曲を生みだしてきた。

その意味で、いまaikoを聴くべきなのは、絶対に私ではなく隣の女だった。こういう女が自宅でクッションに顔をうずめながら聴くためにaikoの曲はあるのであり、三十すぎの男がスタバでわけの分からない文章を書きながら聴くためにあるのではない。このイヤホンの適切な位置は私の耳の穴ではなく隣の席で男の話にあいづちを打って笑いながら泣いている女の耳の穴であり、適切な場所に置かれずしてaikoの何がaikoか!

しかし私は社会動物であり発狂など全然していないから(狂人はそういうこと言うもんですが)、隣の女に唐突に話しかけることはしなかった。かわりに、aikoの多数の作品のうち「あなた」が「あたし」を見てくれないときに聴くべき曲をリストアップしていた。以下がその一覧である。

1 相合傘

相合傘の所 右傘に誰が宿る
あなたであるように望みたくして

先ほど引用した曲だ。ここでaikoは相合傘の片方に自分の名前を書き、隣にくる「あなた」のことを想像している。しかし周りの友達は前向きなことを言ってくれない。「あなた」の目は「あの子」を向いているからだ。

2 アスパラ

あなたの視線追うと必ずいるあの子の前を
通り過ぎてる事で あたしに気付いてほしくて

この曲にも「あの子」が登場する。そしてここでもaikoは「あなた」の視線に注目している。「あなた」の視線を追うと、そこには必ず「あの子」がいる。だからaikoは「あの子」の前をわざと通り過ぎるようになる。「あの子の前を通り過ぎることで、あたしに気づいてほしい」からだ。

3 恋堕ちる時

見つめられる前にあたしが見つめる
ねぇ気付いてほしくて

この曲に「あの子」は出てこない。しかしやはり「あなた」は「あたし」を見ていない。だから「見つめられる前にあたしが見つめる」ことになる。一方通行の視線を、なんとかして両方向にしたい。そのために必死でもがく時、またひとつ曲が生まれる。

4 初恋

「まばたきするのが惜しいな」
今日もあなたを見つめるのに忙しい

aikoのスケジュールは「あなた」を見つめることで埋まる。aikoの手帳を埋めるのは商談でもなければ飲み会でもなく「あなた」に視線を向けることなのである。そして視線を向けるだけのことが、「まばたきするのが惜しい」ほどに極まる。まさにaikoを象徴する歌詞である。

5 ボブ

髪を切りました そうとうバッサリと
見てほしいけど 勇気がないのです

ここでaikoは髪を切っている。しかし「見てほしいけど勇気がない」という。さんざん「気づいてほしい」と言っていたaikoが、ここでは「見てほしいけど勇気がない」と言い出した。このややこしさがaikoの真骨頂である。視線を向けられることは自分が秤にかけられることでもある。だからこそ、「あなた」に見てもらうことには勇気がいる。「見て」と「見ないで」の往復運動で、aikoの心は揺れ続けるのだ。

以上

以上の曲を暫定的に「あなたがあたしを見てくれない時に聴くべきaikoの5曲」としておくが、こんなものはブログに載せても意味がない。私はみなさんに知らせるためにこのリストを作成したのではない。本当はスタバで隣の席にいたあの女に教えたかった。あの女に教えるために作成した。

本当は話しかけたかった。相手の男がトイレに立ったタイミングであの女の肩をポンと叩いて言ってやりたかった。あなたのような存在のために200以上の曲を生み出している人がいます。その名をaikoといいます。私はaikoではありません。ただの伝道師にすぎません。しかし私はほとんどaikoでもあります。aikoを聴くことはaikoになることですので、私はすでにほとんどaikoではあるのですが、そこは社会動物としての節度を守り、あくまでも伝道師という立場を固持したうえで、ほとんどaikoとなった私が、すでにaiko的世界に生きながらaikoを知らないあなたに言いたいことは、あなたは今すぐaikoを聴くべきだということなのです。しかしあなたは膨大な楽曲群にひるむことでしょう。ご安心ください。私がすでに5曲を選んでおきました。

それだけ言って、女にイヤホンを渡してやりたかった!

そして店を出禁になる。