真顔日記

上田啓太のブログ

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超力水を飲んでいた

運動と筋トレを再開したほうがいい。肉体が衰弱している。最低限の健康に届いていない。骨が軋んで運動不足を思い知らされた。

昔、自動販売機で超力水という飲み物が売られていた。中学生時代の記憶である。力水はチカラミズと読む。われわれは好んで飲んでいた。非常に流行していた。しかし味を覚えていない。炭酸飲料だったはずだ。それ以上の記憶がない。ネーミングを飲んでいたと言える。超力水というのは良いじゃないか。中学生男子の心を刺激する。

中学生の自分は友人たちと歩いて帰ることが多かった。帰りの自動販売機でジュースを買える身分がうれしいのだ。財布は非常に粗末なものだった。ナイロン製でマジックテープで留める。白黒のヒョウ柄だった。いかにも中学生の持っていそうな財布である。最高にクールだと思っていた。

これで小銭を出して、超力水を購入する。友人には、ネクターの桃のジュースを毎回買うものもいた。あとはたまにジョージアの缶コーヒー。ブラックではなくカフェオレである。大量のミルクと甘味料が入っている。甘い甘いものだ。しかし当時はコーヒーを飲んだことに満足していた。今では逆に、甘みは不可能。きもちわるくなります。

超力水を日常的に飲んでいた頃、友だちと普段は行かない町に冒険に行って、はじめて見る自動販売機で力水という商品を発見した。超は付いていなかった。デザインも微妙に違っていた。力水は地味だった。超力水のほうが派手だった。力水を経て、超力水が誕生していたのか。超越のプロセスを知らなかった。力水を日常的に飲んだ上で、超力水に出会っていると、インパクトも違っていただろう。

右目の眼筋がけいれんしている。ぴくぴく動いている。眼精疲労にちがいない。最近面白いことを発見した。たまに長めのウォーキングをすると、汗をかいて肉体が活性化しはじめると同時に、目の疲労が強烈に感じられる。疲労を感じるにも肉体の活性化が必要であるようだ。日常的にディスプレイ等を見ることの疲労が、運動した段階で、ようやく疲労として認識されるのである。目元に疲れが感じられる瞬間は気持ちいい。

数年前、古い知人が死んだことを知らされた。同級生だった。激務の末、出張先のホテルで突然死していたのだという。風のうわさで知ったほど遠い距離感の男だった。しかしエピソードだけが妙に記憶に残っている。あまりに仕事が忙しいと、肉体の疲労を肉体の疲労として感知することができなくなるのか。

橋本治が以前書いていた。サラリーマンは真夏に分厚いスーツを着て平然としているほど、肉体から遠く隔たれている。男に肉体は存在しない。『革命的半ズボン主義宣言』。発表は八十年代か。現代日本において、真夏の男たちは半ズボンを履いて、すね毛をむきだしにしている。ユニクロのハーフパンツは飛ぶように売れる。人間の意識も変わる。

別の所でだれかが書いていた。男に肉体は存在せず、ペニスだけが存在している。笑える警句である。しかし冗談でも済まされない。いいかげん性欲のことを書かなくてはならない。

my 屁 , your 屁

ぐう、と腹が鳴った。これは僕の胃袋か?

ここは僕の部屋である。当然、これは僕の腹の音だ。考えるまでもない。しかし最近、腹の音が自分のものなのか、判断の付かないことが増えてきた。人体からは日常的にさまざまな音がする。胃袋の音。呼吸音。骨のきしみ。屁。それらをいちいち、自分の肉体から出た音なのか、他人の肉体から出た音なのか、判断するのはめんどくさいよ。どっちだっていいじゃないか、そんなもん。

しかし脳というのは、意外と馬鹿馬鹿しい機能を備えている。具体的には屁の区別である。これを脳は勝手に判断している。他人の屁のにおいは不快だが、自分の屁のにおいはそれほど不快ではない。むしろ少しの安心感がある。まったく、冗談のような機能じゃないか。しかし、よくできている。あっぱれ、と言いたくなる。非常に便利な機能である。人体のバージョンアップで、屁における自他の区別が実装された時は、ユーザーも大喝采だったことだろう。

たまにヒトは屁で揉める。おまえがしただろ。おれじゃねえ。鼻をつまんで大激論。屁の帰属先のなすりつけあい。そこで登場するのが屁の所有格。簡単な英語の復習だ。my 屁、your 屁、his 屁、her 屁。さらにオマケ的に復習すれば、our 屁、their 屁。

集団で屁をするな、馬鹿。

my 屁と your 屁は日常で使える。屁における激論はこの二つで足りる。your 屁 is so くさい。しかし our 屁が言葉として成立するためには、二メートル四方のプラスチック・ケースに屁をためる若者グループの登場を待たねばならないだろう。若者たちはケースを取り囲み誇らしげに言う。これが、おれたちの屁。おれたちの屁のすべてが、このプラスチック・ケースの中にある。池袋の夜、ラーメン屋の後の屁。渋谷午前五時、終わらないドンチャン騒ぎの合間合間の屁。our 屁 is とても precious。

若者たちはケースに屁をする際、自転車のタイヤに空気を入れる時の要領で、サッと栓を抜き急いで屁をして即閉じる。おれたちの屁が漏れないように。ガラが悪いようでいて、意外と繊細なのだ。しかし大人たちは理解を示さず、街に置かれたプラスチック・ケースを指差して言う。their 屁 is とても迷惑。

先日、私はイヤホンをして街を歩いていた。デパートのエレベーターに乗りこんだ。見知らぬ中年男性が同乗していた。エレベーターは上昇を始めた。しばらくして屁のにおいがした。しかしイヤホンのせいだろう。それが自分の屁なのか、同乗した中年の屁なのか判断が付かなかった。

外界の聴覚を遮断すると屁の自覚は薄れるものだ。自分の肛門付近に空気の微妙な動きはあったか? 普段の私は平均より屁を自覚する人間である。しかし今回は音楽に意識が向いていた。その結果、脳が迷っていた。あの時の感覚! 屁のにおいが安心と不快の間で宙ぶらりんになった、あの時のこと!

俺はこのにおいを不快だと思えばいいのか? それとも少しの落ち着きを感じればいいのか? 明らかに脳は迷っていた。そして私は、脳から解離した透明な意識の場所で、脳の仕事のバカバカしさを笑っていた。くだらんことで悩むな!

「屁の帰属先不明。快不快の結論を下すことができません」

これが脳のコメントアウト。まったく、生真面目に働くもんだよ。

屁はくさい、で終わりでいいじゃないか。

しかし私は、屁にこだわる。肛門にこだわる。糞便にこだわる。徹底的に思考する。そして、うんこで笑うことの向こう側へ突き抜ける。

見ろ、いまやうんこは、何ひとつ面白くない。

昔、自由意志に関する本を読んだ。喫茶店での読書だった。本の内容はいまいちピンとこないものだった。人間の自由意志の有無が問題になっていたが、それは自分にとって切実な問いではなかった。翻訳物だった。キリスト教的世界観が前提となっているんだろうか? 西欧人の書いた本がピンとこない時、私はすぐその結論に飛びつこうとする。

本を閉じて店を出た。帰り道で便意があった。うんこを我慢しながら家路を急いだ。この肛門の力はなんとなく「意志」という感じがすると思った。意志の根源は肛門の制御か? とすると、意志とは筋肉の緊張か? 筋肉の収縮には意志が絡むが、筋肉の弛緩に意志は絡まない。それゆえ、意志によってリラックスすることは難しい? 人間に自由意志はなく、限定された否定の意志だけがある?

呼吸は意志ではないが、呼吸を止めることは意志である。そして呼吸を長く止めることはできない。その意味で、意志は限定されたものだ。運動を続ける肉体に対し、一時的に介入すること。それが意志の力か? あるいは日常的に言われる「意志」は、長期的な人生計画と関わっている? しかし私にはもう、肉体の刹那的な収縮と弛緩が日々のすべてだ。

もこみもこみち

僕はスターバックスの窓際の席に陣取って、店内の様子を眺めている。たくさんの幽霊がいる。店員の肩には幽霊の腕が絡み付いている。入口近くの客の胴体からは血まみれの顔が飛び出している。丸テーブルの下にうずくまる悲しそうな顔の幽霊もいる。しかし誰も気付いていない。店内は平和そのものだ。みなそれぞれの作業に没頭している。あるいは散漫な会話。

労働、性愛、病気。雑談の三大テーマ。

たまに、ガラスごしに外をぼんやり眺めている客がいる。それだ。それがいちばん幽霊の発見に適している。幽霊は意識のすきまにあらわれる。何かに集中していちゃあ、だめだ。意識が透明に近付けば、幽霊なんてものは飽きるほど見ることができる。ぬはははははは。

隣席のおじさんの笑い声が耳に入った。特徴的な笑い方だ。この中年二人組は先ほどから午後二時のスターバックスに似合わない下品な会話をしていた。具体的には、金銭を利用して女体にふれる方法について。おじさんというのは、本当に女体が好きな生きものだ。

幽霊には飽きた。外出のたびに数十体と見ていれば、幽霊も通行人と大差がなくなる。血まみれの顔にあわてるのも最初のうちだけだ。おどろおどろしくも何ともない。事故にあえば血まみれになる。そして未練にかられて化けて出る。意外性がない。幽霊の発生はベルトコンベアと同じだ。未練を残して突然死。流れ作業のように恨めしや。くだらない。結局は幽霊の血も赤いのだし、僕たちと同じだ。

今の僕が驚くとすれば何だろう? 駅前で妖怪でも見かければ驚くだろうか?

人生で一度、カッパを見たことがある。駅前の坂道で尻子玉を落としてしまい、転がっていくのを慌てて追いかけていた。まぬけなカッパだった。あの尻子玉は無事に拾えたのだろうか。僕はカッパの甲羅の深緑に好感を覚えた。しかし頭の皿を丸出しにしているのはいただけない。割れると死んでしまうほど重要な部位なのに、防具ひとつ付けず外気にさらしている。知恵が足りない。少なくとも頭巾をかぶるべきだろう。

しかしカッパの肉体は貧弱なように見えて、意外と屈強にできており、相当の筋肉を保持していることが見て取れた。日々の水泳の成果だろう。だてに水辺に住んでいない。日常の要求する筋肉を身に付けている。それこそが理想的な筋肉だ。僕はあこがれる。しかしカッパの体型にまであこがれるとは、虚弱の末路もあわれなものだ。

駅前のゴールドジムに通うことにしよう?

脳からの突然の提案に、僕はどう答えればいいのか分からない。脳というのは日常的にさまざまな提案をしてくるものだ。観察していると分かる。脳は他人なのだ。勝手に記憶を蓄積し、勝手に思念を生んでいる。頼んだ覚えはまったくない。胃袋が勝手に働くように、脳は勝手に機能する。ヘイ、Siri なんて言ってる場合じゃないのだ。人間の脳自体、Siri のようなものなのだから。しかし人類は、脳のオモチャを作って浮かれている。不思議なことだ。人類の不可思議を数えていけば、七不思議じゃあ、とても足りない。

三千世界に、不可思議のみが充満す。

それがこの世界の本当の姿だというのに。

僕は一度も幽霊を見たことがない。カッパを見た話も嘘。僕に超常的なものを見る力はない。だから僕の視界に入るのは、人間、動物、そして無数の物質のみ。

しかし幽霊のことは頻繁に考える。妖怪のことも考える。幽霊に強く惹かれるのは、それが死と結びついているからか? あるいは間主観性のほつれ? 後者だろう。幽霊という概念のポイントは死ではない。認識の問題として幽霊をとらえなおすべきだ。

妖怪はむしろ娯楽として存在している。カッパ、ぬりかべ、いったんもめん。垢なめ、こなきじじい、砂かけばばあ。どの妖怪も、練りに練った大喜利の回答みたいな見た目をしていやがる。日本人の想像力のオールタイムベスト。それが妖怪なのだ。

幽霊は哲学で、妖怪は娯楽。なんと勝手な二分法。

二〇二〇

僕にはもう、色々なことが分からない。さみだれを漢字で書くことはできる。五月雨。これで、精一杯だ。しかし世の中は令和二年だとか言っている。知ったことじゃない。

昨日の夢を思い出そうとして、記憶と混濁して、判別が付かない。僕の知能は草むらのバッタに似てきた。僕に分かるのは、触角で感じとった世界だけだ。青空と草むらと真白の雲があれば、じゅうぶんではないか。しかし言語は残酷なほど豊かで、今日も日々、俗悪な言葉、高尚な言葉、よくある言葉、めずらしい言葉、古くからある言葉、新しくできた言葉、感情的な言葉、分析的な言葉、悲観的な言葉、楽観的な言葉、さまざまな言葉が脳に入力されてくるが、知ったことじゃない。

夕暮れの光だけを信用している。

めがねに付いた指紋は、確実に自分の指紋だ。めがねを拭くたびに考える。この指紋は自分の指紋だ。それはしかし、本当だろうか? これだけは信じられると断言できる、すがりつくことのできる真理だろうか? めがねに他人の指紋が付く可能性は、本当に絶対に、ないのだろうか?

僕は目が悪く、コンタクトレンズとめがねを使い分けている。裸眼の時、事物のすべては対象の輪郭を失い、ぼんやりした霧のような色彩として、存在している。人間の表情が、肌色のモヤに変わる。この世界は素敵だ。人の表情を読むことがなくなる。すると感情は存在しなくなる。裸眼の世界は夢のようだ。

しかし僕は社会で生きるため、器具によって視力を矯正する。人間の表情の世界に戻ってくる。そして無数の感情に突き刺され、血を流す。

裸眼の世界はしかし、無条件によいものではない。他人の感情は耳からも入る。声。これが怖ろしいものなのだ。人間の声には多量の感情がふくまれる。烏丸御池に住んでいた頃、近所の定食屋の店員のおばさんに一人、物悲しい声を出す人がいた。太い棒で叩かれた犬のような感情で、いらっしゃいませ、と言っていた。接客業の定型的な言葉が、結果的に、人の感情をむきだしにすることがある。何度も同じ言葉を繰り返していると、徐々にそれは意味を失い、鳴き声のようになるのだろう。あのいらっしゃいませは、だめだ。心臓が連動して締めつけられる。

夏、荒川の河川敷で、サワガニの死骸を見た。殺害の跡が甲羅に残されていた。甲羅の太い溝。自転車のタイヤに轢かれたようだった。荒川の河川敷では、無数の自転車乗りがスピードを競い合うように走っている。ヘルメットをかぶり、黒のナイロンで太ももを包んでいる。本格的なのだ。その中の一人が、路上に登場したカニを即座に踏み潰し、そのまま颯爽と走り抜けたのだろう。

カニは冒険に出るべきではなかった。川の中に住んでいるべきだった。半年が経過して、いまだに僕は、カニのことが忘れられない。

冬の夜、コンビニに行くための路上で、ネズミの死骸を見た。ネズミは綺麗な身体のまま死んでいた。轢かれた跡は見られなかった。毒を盛られた食べものを口にしたんだろうか。翌日の昼には死骸は消えていた。近所のおばさんが顔をしかめ、片付けたのだろう。ホウキを使って死を掃き出すことが、彼女の役目だ。死骸を見ただれかが、発狂してしまわないために。

草むらのバッタのことだけを考えて生きる。

バッタはどんなふうにして、自分の肉体を増やすんだろう。僕はバッタの生態をよく知らない。子供の頃に読んだ図鑑の内容はすべて忘れて、バッタの触覚の微妙な揺れだけを覚えている。バッタの跳躍力は、バッタの肉体を基準にすればすさまじいものだ。すさまじい高さを跳んでいやがる。しかし人間の尺度でバッタのジャンプを見れば、ほほえましい。

僕の好きなバッタは、顔の細いバッタだ。ショウリョウバッタと呼ばれている。顔の濃いバッタはだめである。目が大きすぎるし、アゴの存在感がありすぎる。ショウリョウバッタの形状は、ジャコメッティの彫刻のように何もない。

バッタの緑色のためだけに今後の人生を使うことにすれば、長生きできるのかもしれない。すくなくとも、死が身近ではなくなる。

感情のイモ掘り遠足

この一年で、以前は聴けなかった音楽が聴けるようになった。Apple Musicを本格的に使うようになったことも大きいのかもしれない。適当に古いヒット曲を聴いてみると、昔はスルーしていた曲に強く感情が反応するようになっている。

たとえば、MINMIが聴ける。ブリトニー・スピアーズも聴ける。「聴ける」というのは自分にとって少し特殊な用語で、要するに、その音楽を良いと思えるし、その音楽の歌声や歌詞に同一化することができる、ということだ。

この意味で、私にとってaikoを聴くことはaikoの音楽を再生することとイコールではなく、aikoの音楽を通して自分の中に眠っている感情を掘り起こすことだった。今では遠い昔のことのように感じるが、はじめてaikoを「聴ける」ようになった時、わりと動揺した記憶がある。自分の変化に気づかされたからだろう。その範囲がaiko以外にも広がってきたということか。

現在、MINMIの『The Perfect Vision』という曲を異常に再生している。背後にある感情がよくわかる。たしかに自分にもこういうところがあると感じる。もっとも、「俺はMINMIだ」というほどの強烈な自覚でなく、「たまにMINMIだ」という程度の弱い自覚ではあるのだが、それでも自分にとっては大きな変化だと思われる。過渡期なんだろう。

少年時代、学校でイモ掘り遠足というイベントがあった。私は他の生徒たちといっしょに遠出して、イモを掘り出していた。人間の感情をイモとするならば、あるアーティストの音楽を聴くことは感情というイモを掘り出すための長い遠足であり、私はaikoを通じて、すさまじく巨大なイモを掘り出したのだと言える。

aikoを通して掘り出した感情はあまりにも巨大で、他を圧倒した。そのイモはあまりに大きく、はじめはイモだと分からなかったほどで、土を払い、イモの一部があらわれ、別のところで土を掘ると、そこにもイモの表面があらわれ、しばらく掘っていくうちに、その両方がひとつの巨大なイモの表面だったと判明したほどだ。

今、ブリトニー・スピアーズを聴くと、背筋が伸びる。まっすぐに姿勢を正して、自信満々で進んでゆくイメージ。服装としては半裸。そのへんで拾った布切れを巻いているだけである。しかし威風堂々。露出すればするほど、自己肯定が高まる状態。肌の面積に比例して、世界は私のものになる。それが、ブリトニー・スピアーズ。

『Toxic』という曲だけをえんえん聴いている。まずはここからはじめて、自分の中にあるブリトニー・スピアーズの要素を少しずつ拡大していき、上田とブリトニー・スピアーズの重なるところを日々発見し、数年後、立派なブリトニー・スピアーズになる。そして最終的に、ビヨンセになれれば最高だと思う。このあいだ、Youtubeでビヨンセが大観衆を前に踊り狂っているのを見て、自分と重なるところが一つもないと感じた。人類の両極、上田とビヨンセ。しかしsomeday、ビヨンセになる。