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真顔日記

上田啓太がいろいろ書くブログ

ゼロという数字の特別なかっこよさについて

日々と思考

少年はゼロという数字が好きである。その理由を考察したい。自分の子供のころのエピソードで始めるが、一般化できそうだと考えている。少年期の私がどのようにゼロという数字を好み、憧れ、惑わされていたか。まずはそこから始めよう。

子供のころ、ひとつ上の兄ちゃんが結成したヒーロー戦隊に加入していた。私のほかに二人の子供がいた。主な活動は「走り回る」だった。近所に悪はいないからである。これは仕方ないことだった。兄ちゃんに連れられて公園などを走っていた。

ヒーロー戦隊ではそれぞれの隊員に番号が振られる。近所の小さな公園で私とほかの二人がブロック塀の前に立ち、正面に兄ちゃんがいた。兄ちゃんは最初に「俺が1号」と言った。これは当然だった。次に年下の二人が2号と3号を与えられた。最後に私の番だった。兄ちゃんは私を指差して言った。

「おまえはゼロ号!」

これが私の「ゼロが嬉しい」という記憶の原点である。正直、私は不安だった。兄ちゃんが1号なのはいいとして、自分より年下の二人に2号と3号が割り振られた。まさか自分は4号にすぎないのか。そこに与えられたゼロ号の響き。これが嬉しかった。

すこし回想の時を進める。

中学生のころは、「零式」という表現が流行っていた。たとえば『るろうに剣心』において、斎藤一は「牙突零式」という技を使う。これは斎藤の牙突という技のうちで最強のものである。ゲームに目をむければ、FF7には「バハムート零式」という召喚獣がいた。これはバハムート・バハムート改の2匹を経て、最強のバハムートである。

一気に時を進めれば、『ハンターハンター』のネテロが最終奥義として百式観音の「零」を使う。こういう証拠があるから冒頭で私は「一般化できそう」と言っている。「奥義はゼロになる」という感覚は、子供たちに共有されているんじゃないのか。

なぜゼロはかっこいいのか?

ゼロがかっこいいのは、はぐれものだからだ。

まずは、増加の世界がある。そこでは1、2、3……と増えるほどに偉い。たとえば年収がそうである。次に減少の世界がある。たとえばスポーツの順位であり、3位、2位、1位……と減るほど偉い。しかし、どちらもゼロとは関係がない。

序列がある時、その序列でトップを取るより、序列から外れるほうがかっこいいという感覚。これがゼロのかっこよさの理由である。ピラミッドの頂点を目指すのではなく、ピラミッドの構造そのものから外れること。これである。

次に算数の世界で考えてみよう。

まずは、かけ算におけるゼロだが、これはどんな数字もゼロにしてしまう。3×0は0である。15×0は0である。35兆42億4321万5216×0も0である。これがゼロは増減の世界から外れているということの意味である。数字が増えることが偉いという世界に、ゼロは冷や水をぶっかける。資産が35兆あると言われようが、ゼロには通用しない。

「んじゃ俺をかけてみるか?」

この一言で終わりである。

次に割り算である。ここではさらに怖ろしいことが起こる。0を他の数字で割るとどうなるか? 0である。0を4で割ると0である。0を73で割ると0である。0を51兆で割っても0である。無敵である。柔術の極みである。しかし、それだけではない。

たとえば、4を0で割ってみる。ここにゼロの真骨頂がある。4を0で割ると「計算不能」である。こんなにも胸をときめかせる結果があるか! 計算できると思うだろう。これまでどんな数字も計算できたんだから。なのにゼロは計算不能!

ゼロには、出生の秘密まである。他の数字とちがい、一人だけインドで生まれたのだ。ゼロは数字界の私生児だ。だからこそ秩序と無関係に生きる。常に例外として存在する。それが例外として存在したがる少年のマインドに合致するのだ。

最後に、むかし読んだ本を貼っておく。

異端の数ゼロ――数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

異端の数ゼロ――数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

 

これはタイトルの時点で最高だった。

「異端の数ゼロ」である。異端なのである。まさに少年の求める立ち位置である。副題も最高である。「数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念」である。ぞくぞくする。私だって、数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念になりたかった。