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真顔日記

上田啓太がいろいろ書くブログ

女の胸を「バスト」と呼んだ時のすさまじい中年くささ

日々と思考

 ネットを見ていたらバストアップの広告が表示された。それで思ったのは、女が胸を大きくしようとする場合、いまだに「バスト」という言葉が普通に使われるということだった。そこに違和感はない。バストアップにかぎらず、女性誌では「バスト」という表現が普通に使われている気がする。あくまでも印象論に過ぎないが(女性誌読んでないし)。

 私は「バスト」というのを死にかけの表現だと思っていた。というのは、男の欲望の対象としての乳房を表現するときに「バスト」と言わなくなって久しいからである。

 欲望の対象としての乳房を「バスト」と呼ぶと、すさまじい中年くささが発生する。ここに「〇〇クン」という呼称がつけば完璧で、たとえば「香織クンの見事なバスト」と言えば、立派な中年が完成する。立派な中年を作りたいときは、とりあえず女をクン付けで呼ばせて、バストを褒めさせておけばよい。

 現代においては、欲望の対象としての乳房をバストと呼ばない。おっぱいと呼ばれることが多い。しかしこれは子供っぽさが気になる。ただバストに比べると微妙で、気にしない人も多そうだ。私個人の感覚では抵抗があるという話である。バストは中年で、おっぱいは子供だ。

呼称と文化

 同じものを指しているのに呼び方で雰囲気が変わることが興味深くて、それが露骨に出るのが「性」と「排泄」だと思う。このへん自分のなかで気になっている。動物としての人間は普通に交尾や排泄をする。それ自体は単なる活動だ。そこに文化的な意味が付着するから「下ネタ」という発想も生まれる。「下品」と判断するのも文化の産物なのだ。

 以前、村上春樹の小説に出てくる「ペニス」という単語をすべて頭のなかで「ちんぽ」に置き換えながら読んでみたことがあったんだが、とても読み通せるものではなかった。あの記憶が頭に焼き付いている。男性器のことを「ペニス」と呼ぶこともひとつの小説世界を構築する要因となっていて、それは「ちんぽ」に変えるだけで瓦解するのだ。これはバカバカしいようで重大な問題である。

下ネタと自己紹介

 人は無意識のうちに「性と排泄にまつわる言葉」への態度で自己紹介している。第一に「言うか、言わないか」の問題がある。「あの人は下ネタをガンガン言う」あるいは「全然言わない」である。そして「どの言葉を選ぶか?」の問題がある。たとえば村上春樹の作品は男性器を「ペニス」と呼ぶ。これは肯定的にとらえれば「品のよさ」であり、否定的にとらえるならば「気取り」である。

 反対に、えげつなく言おうとする人もいる。平気で下ネタを言うことも、状況によっては長所になるのである。そこでは「チンコ・マンコ」とあっさり言ってのけることが格好いい。「スカしてんじゃねーよ」ということである。「チンコはチンコ、マンコはマンコだろ」ということである。これも社会へのアティチュードである。

 社会への不満や多数派への怒りを示すために、男性器や女性器に露骨に言及する人間もいるのである。むろん、ペニスと言われようが、チンコと言われようが、男性器自体はもの言わず、静かに股からぶらさがり、風に揺れているだけだ。そこに人間たちが、さまざまな意味を見出しているということだ。

欲望の対象としての乳房

 欲望の対象としての乳房に話を戻そう。

 私は、バストと呼んでも、おっぱいと呼んでも、違和感がある。関西では「チチ」と言われることも多いが、これもしっくりこない。そもそも、欲望の対象としての乳房と正当な距離を保とうとすることに無理があるのかもしれない。欲望の対象としての乳房とのあいだに「正当な距離」などあるはずがない。それは自分の性欲との間に「正当な距離」を見つけようとする発想の異常さかもしれない。

 最後に、本題とは関係ないが、何度も書いているうちに気になってきたのは「欲望の対象としての乳房」という言い方である。これはなんなのか。外国語を直訳したような不自然な表現。ドイツの哲学書にありそうだ。あまり知られてないドイツ観念論の書物なんかに。

 翻訳サイトでドイツ語にしておいた。

 Der Busen als ein Gegenstand der Habgier.

 これが「欲望の対象としての乳房」の独語訳である。これを使えば、「バスト」の中年くささからも、「おっぱい」の子供っぽさからも逃れられる。かわりに生まれるのは、すさまじいドイツ観念論くささである(言ってることが適当すぎる)。