真顔日記

上田啓太のブログ

グミの脱落

長いことグミを噛んでいない。

最後にグミを食べたのは小学生か中学生にまでさかのぼるのではないか。今でも食べる菓子がある一方で、食べなくなった菓子がある。芋けんぴは今でも食べる。ポテチ類も今でも食べる。ポッキーやプリッツや板チョコも食べる。なのにグミは脱落した。グミに何があったのか。

だから店で買ってみたのである。果汁グミ。文字どおり果汁の入っているグミだ。こんなものを買うのは二十年ぶりじゃないか。

小学生の頃は果汁というものが大好きだった。小学生とは果汁に反応する生き物である。それは売る側もしっかり理解しているんだろう。パッケージには大きく「果汁」の二文字が記されていた。しかし三十を過ぎた自分には果汁の魅力などさっぱり分からない。そこを推されても困る。飲みものでも水とお茶が最高。

ひさしぶりに噛んだグミは、くにゃくにゃしていた。こんなもんだったか、と感じた。噛むとなつかしい果汁が口に広がった。こんなもんだったか、と感じた。何度か噛んで飲み込んだ。こんなもんだったか、と感じた。とにかく美味いでも不味いでもなく、こんなもんだったかとだけ感じた。ドラマ性なし。

グミとの二十年ぶりの再会に、何のドラマも生まれなかった。これはちょっとだめ。生き別れた親子の再会でこうなると興ざめ。母親が大きくなった息子を見て、こんなもんだったか。息子のほうも母親を見つめながら、こんなもんだったか。

ちなみに、果汁グミといっしょに粉のついたグミも買った。こちらは今でもおいしかった。「粉のついたグミ」という説明の適当さも我ながらひどいが、あれは粉のついたグミと言うしかない。レモン味のグミに白い粉がついている。粉があるなら今でもおいしく食べられる。こんなもんだったかとも感じない。

となると、生き別れた親子も粉まみれで再会すればいいと考えてしまうが、これは明確に間違いだろう。むしろだいなしになる。母親が粉まみれの息子を見て、こんなもんだったか。息子も粉まみれの母親を見て、こんなもんだったか。生き別れた相手が粉まみれになっていた場合、「こんなもんだったか」という表現は非常にしっくりくる。

懐かしついでに、綿パチも買った。これは本当に何なんだと思った。口の中がパチパチする。それだけである。うっとうしい。うっとうしい!? 綿パチを食べてうっとうしいと感じる大人にだけはなりたくなかった。ショックだ。

しかし、綿パチを食べて、「口ん中パチパチする~!」と興奮する三十すぎも、それはそれでイヤですね。素朴も突き抜けるとアホ。