真顔日記

上田啓太のブログ

なんでもゴリラにするのやめて!

同居女性が卵のパックの開けかたを勘違いしていた。十個入りのプラスチックの容器、あれは片側をピーッと引っ張れば綺麗に開くんだが、それを知らなかったのだ。

だから毎回、力ずくで開けていたらしい。逆側に「ここを引けば開きます」と書いてあるのに、プラスチックをバキバキに裂いて開けていた。この女はひんぱんに冷蔵庫の前で卵を落としていて前から疑問だったんだが、こんなかたちで謎が解けるとは!

開けかたが分からないから力ずくでやる。たまに卵が落ちて割れるが、次も普通に力ずくでやる。こんなものは発想がゴリラじゃないか。私は人間2人とネコ4匹の暮らしだと思っていたが、人間とゴリラとネコ4匹の暮らしだったのか? 私はゴリラの家に居候していたのか? 

「そういうやつもあるんだよ! がんばって開けるやつ!」

そんなふうに反論されたが、しかしやはりゴリラ以外なら、すこしやって開かなければ別の方法を考えるのではないか? いったん冷静になって、自分の開けかたが間違っていないか確認するのではないか? ゴリラだからこそ頭を使う方向に進まずに腕っぷしでなんとかしようとするのであり、それはあらゆる障害物を腕力でなんとかしてきた経験に裏打ちされたゴリラ特有の理性の軽視、ゴリラ特有の腕力ありきの思考回路、それは美点とも欠点とも言えず、ただゴリラ的と呼ぶしかない思考回路なんだが――

「もうゴリラいいから!」と女性は言った。

「なんでもゴリラにするのやめて!」

言われて気づいたが、たしかに私は「同居人がゴリラ」という物語を駆動させたがっていた。目の前の相手がゴリラだったらいいという欲望のもとに、無理やり同居女性をゴリラ化していた。ちょっと早口になっていたかもしれない。そう言われると認めるしかない。私はゴリラのことになると正気をなくすから。

原因は分かっている。ゴリラへの憧れが歪んだかたちで出ているのだろう。私は野蛮なゴリラに憧れるが、同時に自分はそうなれないという諦めも感じる。だから他人にゴリラめいたものを感じるたびに、敏感に反応してしまう。自己のゴリラ化に挫折した結果、他者にゴリラの夢をたくしたと言えるのかもしれない。プロをあきらめた無数の野球少年が少数のスター選手に夢をたくすように。唯一のちがいは、同居女性がプロゴリラ選手じゃないことか。

考えてみれば、過去にも似たことがあった。数年前、一人でマクドナルドのカウンター席に座っていたとき、隣に中学生がやってきた。スマホを充電しに来たらしい。コンセントは半回転させてから差し込むタイプのものだった。しかし中学生は気づかないようで、力ずくで充電器を差し込もうとし、「入らへん、入らへん……」とつぶやいていた。

「ゴリラかよ」とあの時も思った。

「それ回すタイプだよ」と教えてやると、「どーも!」と元気よく感謝された。あの少年の中で私は「やさしいお兄さん」だったかもしれないが、心の中ではずっと「ゴリラかよ」と思っていた。本当にやさしいお兄さんは、心の中で子供をゴリラ扱いしたりしないだろう。

しばらくすると若い女がやってきた。だがその女も回すタイプだと気づかずに、力ずくで無理やり差し込もうとしていた。「メスゴリラかよ」と即座に思った。しかし私は同じことを教えた。感謝された。笑顔を返した。だが頭の中では、「メスゴリラが人里に」という号外のビラが宙を舞い続けていた。

現代文明は複雑になりすぎたから、生活のあちこちで得体の知れない装置に出会うことになり、それが人間をゴリラ化させる。開けかたの分かりにくい卵のパックも、半回転させてから差し込むコンセントも、人をゴリラにする初歩的なトラップだ。そして、ゴリラへの欲望を胸に秘めて生活している私のような人間は、街のあちこちでゴリラ化した人間に出くわすことになる。夢の街だ。ユートピアはここにあった。

だがやはり、こんなものは「なんでもゴリラにするのやめて!」の一言に尽きる。自分のなかに残った常識の切れっぱしがさけぶ。ゴリラへの欲望を見境いなく他人にブッかけるな。ゴリラ扱いはおまえにとっちゃ最高の褒めことばか知らんが、むやみに他人に適用するな。同居人をゴリラ化するな。女子供はなおさらだ。