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真顔日記

上田啓太のブログ

自転車に乗れるのは一種の奇跡なのではないか?

私はあまり自転車に乗らない。日常における移動手段は徒歩、あるいはバスと電車。自転車に乗るくらいなら歩いてしまう。運動不足も解消されるからちょうどいい。時間に余裕があるからできる発想だろう。

今日、ひさしぶりに自転車に乗ったんだが、やはり不思議になる。こんな細っこいタイヤで、なぜ左にも右にも倒れずに走ることができるのか。私は天才なのではないのか。あえてグラッと身体をかたむけても倒れない。すさまじいボディバランス。これは天性のものなのか!

頭のなかで自画自賛が始まるが、まわりを見れば、オバチャンも爺さんも小学生も平気で自転車に乗っている。全員天才である。神は平等にボディバランスを与えているようだ。

いや、冗談のように書いているが、わりと本気で、私は自転車に乗れる自分に驚いている。なにか壮大なドッキリなんじゃないか。本来、自転車というのは血のにじむような努力の果てに、それこそ中国雑技団のように幼少期から徹底的に訓練してきた人間だけが乗りこなせるものであり、大半の人間には難易度の高すぎるものではないか。それが神の冗談によって誰でも乗れる状態になっている。数百年単位の奇跡。神は石ころをパンに変えたように、自転車を誰でも乗れる乗り物に変えた。われらにボディバランスを与えたもうた。杖をひとふりして「ボディバあれ」。

いつの日か、ドッキリ大成功のプラカードを持った神が登場し、口のはしっこからペコちゃんのように舌を出して、すべては冗談だったと暴露するんじゃないか。瞬間、それまで平気で自転車に乗れていた多くの人々、とくに平均以下のボディバランスしか持たない私のような人間はズルッと自転車ごと転倒し、ひざをすりむき、三十すぎて路上で号泣、となりではおばさんが転倒してガチギレしており、さらにとなりでは爺さんが、飛んでいった入れ歯を必死で探している。

以降、どれだけ努力しても我々は自転車を乗りこなすことができず、絶対に左右のどちらかに倒れてしまうことになり、二輪車は一部の天才に許された特権的な乗り物だという事実を受け入れて、後輪の両端に小さなタイヤを付ける。補助輪の復活である。

そしてたまに街で自転車をスーッと走らせている人を見れば、一種の曲芸でも見るような、あこがれの気持ちに口をぽかんとさせ、その優美な姿を見つめながら、補助輪付きの自転車でキコキコ進む。

私は、この世界のほうが直感に近いと思っている。四輪は乗れて当然、三輪車など馬鹿でも乗れる。しかし二輪、これは不可能の境地である。全員、勘違い中。死ぬまで奇跡が続きますように。