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真顔日記

上田啓太のブログ

他人の視線が自己愛を生みだしている

男は自分の乳首を気にしない。これはもはや定説と言っていいだろう。この社会において女の乳首には重大な価値が置かれているが、男の乳首など胸のあたりに付着したドドメ色のゴミ。それ以上でもそれ以下でもない。

当然、私も自分の乳首を気にしないし、油断すれば自分に乳首があることすら忘れてしまう。たとえば銭湯などで服を脱ぐ場合、見知らぬ人々のなかでペニスを丸出しにすることには多少の躊躇があるが、乳首は問題ない。いくらでも出すことができる。

結局は、他人の視線を意識するかどうかなんだろう。他人が見ていると思い込むからこそ、肉体の特定の部位が強い意味を持ちはじめる。もしもこの社会が女の乳首に何の価値も置いておらず、ひじやひざに対するような無関心ぶりでいたならば、女たちは平気で乳首を露出していたにちがいない(と書くと喜ぶ男もいるかもしれないが、喜ぶ男がいないということがこの仮想社会の前提条件である)。

こんなことを書いているのは、十年前、私は一時的に自分の乳首のことをすごく考えていたからで、きっかけになったのは、バイト先の先輩数人と銭湯に行ったときに言われたこんな一言だった。

「上田君って、すごく乳首が綺麗だよね」

なぜそんなことを言われたのかは分からないが、とにかくそんなふうに唐突に自分の乳首に言及された。その場では「いやなに言ってんすか!」と軽く返して小さな笑いも起こり、話題はすぐに別へ流れたんだが、その日の夜、一人になってから布団の中で「俺の乳首って綺麗なのか……」と思いはじめてしまい、そうなるともう駄目だった。

それまでは胸のあたりの単なる突起物でしかなかったものが、「俺の綺麗な乳首」と認識されはじめる。自分の価値の一部を担うものになる。鏡の前に立ち、まじまじと自分の乳首を見て、綺麗なのか確かめようとするが他の男の乳首を知らないから比較しようもなく、「ううん、綺麗かなあ」とか、「別に普通な気もするけど」とか、「でもあの人はすごく綺麗だって言ってたし……」と悩みはじめ、最終的に、

「まあ、けっこう綺麗かも、俺の乳首」

そんなところに着地するともう駄目で、一種のナルシシズム、乳首への自己愛が生まれてしまった。それまでは乳首まわりの毛なんて気にしていなかったのに、せっかく綺麗な乳首なんだからと小バサミでこまめに切るようになった。モネの絵画だって額縁が汚けりゃだいなしだもんな、なんてふうに、自分の乳首とモネの絵をイコールで結びはじめた!

この変化、人から言及されることによる自己愛の発生がすごく印象的で、十年以上前のことなのに今でも思い出すわけだ。

私の乳首については、その後だれからも言及されることがなかったから自然と自己愛も減衰していったが、あの後もさまざまな人に乳首のことを言及されていたら、乳首の価値と自分の価値は完全にイコールで結ばれていたと思う。そして乳首を褒められたり貶されたりするたび、自分の価値が揺らいで不安定な気分になっていただろう。

イメージしてほしい。薄暗い空間の中央に円卓があり、そこにパンツ一枚の私が立たされている。乳首に強い照明が当てられている。大勢の人々が円卓を囲んでおり、私の乳首に視線を向けている。様々な世代の男たち、女たち、それぞれがそれぞれの立場から、私の乳首に対する意見を述べている。

・乳首が綺麗だね
・ドドメ色のゴミじゃん
・わたしの彼氏のほうが綺麗だった
・金を取れるほどの乳首ではない
・美そのもの
・まあ綺麗……かな?
・絶品
・いや褒めすぎでしょ(笑)
・ドドメ色のゴミじゃん
・神の芸術
・乳首を国宝にしたいと初めて思えた
・ドドメ色のゴミじゃん
・ドドメ色のゴミじゃん
・ドドメ色のゴミじゃん 

このように、私の乳首が膨大な反応を生み出し、それは神の芸術なのか、ドドメ色のゴミなのか、人々はえんえん議論しつづけ、私は円卓の中央で乳首まるだしのまま立ちつづける。この状態で、自分の乳首をどうでもいいと思うことは不可能だろう。

人に言及されるたびに乳首の価値は揺れる。「良い」と「悪い」の往復運動がはじまる。私は乳首への言及に喜んだり傷ついたりするが、「乳首などどうでもいい」とだけは思えない。プラスとマイナスで揺れ続けるかぎり、ゼロには辿りつけない。最初は乳首の価値などゼロだったのに。

今回は私の乳首を例にとってみたが、この話はさまざまなものに適用できる。あなたの価値を担う様々なものは、私の乳首のようなプロセスを大昔に経ているのだ。あなたが自分の顔のよしあしを気にするなら、あなたの顔は私の乳首である。あなたが自分の年収を気にするなら、あなたの年収は私の乳首である。あなたが自分の肩書を気にするなら、あなたの肩書は私の乳首である。自己愛は他人の視線によるプラスとマイナスの揺れのなかにあるのであり、揺れが消えた時、自己愛もまた消える。人が自分のくるぶしの形を何とも思わないように。過去の私が自分の乳首を何とも思っていなかったように。

乳首は、ただそこに在る。意味づけするのは人間だ。乳首は美しくもなければ、ドドメ色のゴミでもない。性的なものでなければ、面白いものでもない。乳首は在る。石ころが在るように、乳首は在る。あなたも、私の乳首のように在りなさい。

なんだか仏教のありがたいおはなしみたいになってきたので、このへんで終了します。この坊さん、袈裟を着てますが、乳首のところだけ穴があいてますからね。それを自分で指さしながら、ずっとこんな話をしています。道ゆく人をつかまえては、私の乳首のように在りなさい、私の乳首のように在りなさい、と繰り返しています。私の将来の姿です。それでは。