真顔日記

上田啓太のブログ

aikoは「元気な女」なのか?

aikoは「あたしとあなた」について歌う。するとそこには「ウフフ、アハハ」とでも言うべきイチャイチャ感が出てきそうだが、aikoはこれだけ恋愛の歌を歌っていながら、イチャイチャ感のある曲をほとんど書いていない。

そこには常に緊張があり、不安があり、恐怖がある。「あたし」と「あなた」の間には溝があり、完全な合一に至ることはない。これは「付き合っている・いない」には関係がないようだ。aikoにとって人の心は常に変化するものであり、付き合っているという事実も、関係の永遠性を保証してはくれない。

人間関係に対する根本的な不安が、aikoの声の質を規定している。たとえばaikoが「ずっとそばにいるから」と歌うとき、その声は「ずっとそばにいる」ことを完全に信じられていない。言葉と声が分裂している。

不安定な関係の海のなかで、なんとか自分たちの乗ることのできる筏を作ろうとする。それがaikoの声であり、曲であり、言葉である。

『Aka』という曲のピークにおいては、「音の混ざった人ごみのなか、二人はなれず手をつないだ、愛してるよりも強い指で」と歌われる。aikoにとって人間関係は指の一本でかろうじてつながるものなのであり、その指が「愛してるよりも強い指」になるところに、aikoの真骨頂がある。

……というふうに私は思っているんだが、しかし同居人は「aiko=元気な女」というイメージを持っているようで、ここに私は違和感を持つ。aikoのどこが元気なんだと。これだけ元気のない女も珍しいじゃないかと。

「いや元気じゃん、めちゃくちゃ元気だよ」

そういう根拠は「むかしテレビで見た。すごい元気だった」である。「ピョンピョン飛び跳ねてた」とまで言われる。

「元気ない女はピョンピョン飛び跳ねないでしょ!」

テレビを出されると私は弱い。長いことテレビと接点のない日常を送っているからだ。しかしこれだけ熱心に、ほとんど宗教音楽でも聴くような態度でaikoを聴いている私と、「名前をローマ字で書いてるのがイヤ」という理由でまじめに聞かない同居人、どちらの言葉に重みがあるというのか! 

そう言いたいところだが、私はaikoを本当に音源のみで聴いており、ライブ映像は見たことがない。ライブにも行ったことがない。テレビのaikoも知らない。雑誌のインタビューも読んでいない。だからもしかしたら実際のaikoはすごく元気なのかもしれない。ピョンピョン飛び跳ねているのかもしれない。

私はaikoの曲をすべてパソコンにインポートして聴いているから、どれがシングルでどれがアルバム曲かも普段は意識しないんだが、あらためて考えてみると、私はカップリングにひっそりと入っている曲や、アルバムの最後にぽつんと入っている曲に、異常にハマッている気もする。

調べてみると、aikoの最大のヒット曲は2000年発売の『ボーイフレンド』(52万枚)らしく、たしかにこの曲は元気である。以前友人にaikoの話をしたときは『Power of Love』の人ですよねと言われたんだが、この曲も元気である。しかし私の中では、『ボーイフレンド』も『Power of Love』も例外的な曲である。ほとんど聴いていない。意識して避けてるわけではないが自然とスルーしている。iTunesの再生回数が他と比べると圧倒的に低い。

もしかして、aikoのパブリックイメージは『ボーイフレンド』なのか、「元気な女」なのかという疑惑があって、その場合、私の考えるaikoと世間的なaikoのイメージはズレまくっている。

とりあえず、私にとってのaikoはまったく元気ではない。これはしっかりと書いておかないと、私がこの日記で使うaikoという言葉と、そこから読み手が思い浮かべるaikoのイメージに、大きなズレが生じてしまう。これは致命的である。

私がゴリラの対義語としてaikoを置くとき、それはもちろん元気のないaikoである。これが元気なaikoではゴリラの対義語としてうまく機能してくれない。仮に元気なaikoというものが存在するとしたら、それは要するに身体の小さなゴリラなのであり、それではゴリラの対義語がミニゴリラだと言っているようなもので、論旨が完全に破綻してしまう。

明記しておきたい。このブログにおいて私が「aiko」という言葉を使うとき、それは『ボーイフレンド』『Power of Love』に代表される元気なaikoのことではなく、『えりあし』『三国駅』『ずっと』『Aka』『心に乙女』『水玉シャツ』『夏服』『朝ねぼう』『恋人』『ボブ』『気付かれないように』『愛のしぐさ』『まつげ』『木星』『相合傘』『洗面所』『テレビゲーム』『星物語』『合図』……(キリがないので略)に代表される、元気のないaikoのことである。とくに断りを入れないかぎり、このブログにおける「aiko」は後者のaikoを指していると思って読んでほしい。

以上で言葉の定義は終わりである。

まあ、「である」と言われても困るかもしれませんが。