真顔日記

上田啓太のブログ

単純な接客業は人をおかしくさせる

二十代のころに古い喫茶店で働いていた。レジで注文を聞き、その場で飲み物を出すスタイルだった。出勤前のサラリーマンが主な客層だった。このような店ではスピードが肝である。いかに客を待たせずに飲み物を出すか?

注文の大半はコーヒーだ。ややこしいマキーアートやフラペチーノはないし、そもそも日本のサラリーマンは朝からフラペチーノを飲んだりしない。

週五で入っていたから、接客速度はどんどん上がっていた。単純なことしか言わないから、速度は肉体の限界まで上がっていく。いかに舌をまわせるか、それだけだ。慣れれば慣れるほど自分が機械化していく。コーヒーを出すだけの機械である。しかし速度が上がりすぎると舌がついてこなくなることがある。

一度、コーヒーを出すのがすこし遅れたことがあり、「すみません、お待たせしました」と言おうとして舌がまわらず、

「すまッ!」

とだけ言ったことがあった。

客はキョトンとしていた。二文字しか言えてないんだから当然である。しかも接客ルーチンの勢いはあるから、にこやかな笑顔と元気のよい発声のまま、言葉だけが崩れていた。元気な馬鹿、ここに誕生。

私はなんとか体勢を立て直し、「お待たせしました」だけでもちゃんと言おう、それで最終的にまるくおさめよう、すべて言えた雰囲気にしようと思ったが、失敗は続くものである。今度は、

「おたッ!」

と言っていた。背筋を綺麗に伸ばし、鍛え抜かれた最高の営業スマイルのまま、無意味な二文字を絶叫していた。

結局、私は「すまおた」という謎の四文字を元気よくさけぶ店員となり、客はキョトンとしたまま、コーヒーを持っていった。頭に巨大なクエスチョンマークが見えた。私は固定された笑顔のままで、真っ赤になっていた。

他にも似た話がある。

朝の来店ラッシュの中、次々とくる客を必死でさばいていたとき、「ありがとうございました」を何度も言っているうちに徐々に頭がぼんやりしてきた。サラリーマン、サラリーマン、サラリーマン……と背広の男が次々やってきて、まったく同じホットコーヒーのSを頼み、自分も同じ反応を繰り返す。そのうち、自分がいつからコーヒーをいれているのか、いつまでコーヒーをいれることになるのか、コーヒーをいれはじめる前にも自分というものが存在していたのか、何も分からなくなった。

そのとき、サラリーマンではない若者の客がきて、この客はボーダーの服を着ていたんだが、私は限界をこえていたんだろう、「ありがとうございました」と言うつもりが、

「しましま!」

と言っていた。幼児がえりしていた。見たものをそのまま言っていた。犬にワンワンと言う幼児のように、ボーダーの客に「しましま!」と言っている自分がいた。あれも客はキョトンとしていた。

客の立場で似たことを体験したこともある。

昔、近所にカレー屋があった。店員は徹底的にマニュアルで制御されている感じだった。店長以外はみんな同じ表情をしていた。腹の前で手を組み、同じ口角のあがりかた、同じ発声法で、同じことを言ってきた。「独裁国家?」と思った。

店長は小太りの男で、ひとりだけ愛想が悪く、ニコリともしなかった。あれはどうかと思った。おまえが率先してやれよ、と思わされた。なので私はこの小太りの店長を密かにビッグブラザーと呼んでいた。ジョージ・オーウェル、1984(カツカレーのカロリー数)。

店員たちの接客は、非常にクオリティが高かった。高すぎると言ってもいいほどだった。そこに個々の店員の特徴は存在しなかった。誰に接客されても感触は同じだった。

しかし、店長の独裁は店員に強烈な負荷をかけていたんだろう。ある時、ひとりの女性店員がレジで噛んだことがあった。たぶん「ありがとうございました」と言おうとしていたんだが、口から出ていたのは、

「アガガッ!」

という声だった。口角を不自然にあげた奇妙な笑顔のまま、「アガガッ!」と言っていた。それは管理下におかれた人間の最後の個性だった。私はキョトンとしていた。店員がおかしくなると客はキョトンとしてしまうんだろう。悪いことをしたとおもう。私も接客業でおかしくなったことがあるんだから、理解を示してやればよかった。

「アガガッ!」
「すまッ!」
「アガッ!」
「おたッ!」
「ガッ、アガガッ!」
「しッ、しましまッ!」

みたいに、二人でおかしくなってやればよかった。

そして、ニコリともしないビッグブラザーに仲よく射殺される。