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真顔日記

上田啓太のブログ

ジャンカラにおける北乃きいの無限増殖

数年前、同居人とカラオケに行った。ジャンカラという店だ。関西の人間なら知っているだろう。ジャンボカラオケ、通称ジャンカラ。安さがウリの店である。おもな客層は学生だと思うが、我々は三十路前後のふたりぐみとして、堂々と凛とした顔で入っていった。

当時は北乃きいがイメージキャラクターをしていた。受付のまわりに大量にポスターが貼ってあり、そのすべてで北乃きいが笑っている。店員はやる気のない男で、ルーチンワークまるだしの接客をしてきたが、そのうしろでは、十人の北乃きいがはちきれんばかりの笑顔。そのコントラストに同居人の小鼻はヒクヒクし、前歯もチラチラ、私はひじで小突いて笑うなと伝えた。

「あんたも小鼻」

受付をすませたあとで同居人に言われた。たしかにヒクヒクしていたかもしれない。それから話題は北乃きいになった。われわれは「おもしろい名前」という一点で盛り上がった。

「北乃きいって何なんだろね、きいって本名?」
「さあ、調べてみれば」
「いや、いい」

エレベーターに乗り込んだ。するとエレベーターの壁にも同じポスターが貼られていた。しかも三方、扉以外のすべての壁に北乃きい。我々ははちきれんばかりの笑顔の北乃きいに三方を囲まれて空間を上昇するはめになった。空間くらいは誰にも見られず上昇したいものなのに。

「貼りすぎでしょ」と女性が言った。「北乃きい何人いるのよ」

受付で十人の北乃きいに出迎えられ、いまは三人の北乃きいに囲まれながら狭い箱の中にいる。歌を歌いに来たはずなのに北乃きいの笑顔をたらふく詰めこまれ、おもわず胃もたれが心配になる。

「自分がこんなに増殖してるの、きいは知ってるのかな」
「知らないだろ」
「教えてあげたほうがいいよ、自分がジャンカラで十人以上に増殖してるの嫌だよ、はちきれそうな笑顔で無限増殖だよ」
「ブログ調べてメールしてみれば」
「いや、いい」

扉が開いた。これで扉の向こうに北乃きいが立っていたら完璧だったんだが、実際に立っていたのは一人のおっさんだった。ちりちり頭の五十二歳、くたびれたジャンパーの中島しげのぶ(適当)だった。我々はエレベーターを降り、おっさんは入った。

「きいだったら最高だったのに」と廊下を歩きながら私が言った。「きいなわけないでしょ」と女性が言った。日常とはオチを用意してくれないものである。

与えられた個室にもきいのポスターはあった。さすがに我々は飽きていた。歌っている最中、店員が飲み物を持ってきた。扉がノックされた時、私は「きいかも」と言った。女性ややウケ。

歌い尽くして静かになった。二人でカラオケに行くと、すぐに順番が回ってくるから二時間でぐったりする。我々は疲れ切って呆然としていた。壁のポスターではあいかわらず北乃きいがはちきれんばかりの笑顔だった。

「はちきれればいいのに」

同居人が妙にグロいことを言い出したので、たしなめて部屋を出た。会計を済ませて帰宅した。いつかの夏の出来事だった。