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真顔日記

上田啓太のブログ

真木よう子の「よう」の部分を祝うパーティー

映画を観ていたら麻生久美子が出ていて、本当にしみじみと思ったんですが、麻生久美子という名前であの見た目なのはすごいことですね。たしかに麻生久美子ですもんね。あの顔立ちで、あの髪型で、あの肩幅なら、名前は麻生久美子にするしかない。豪徳寺のぶよ、とかじゃないですもん。

美人っぽい名前の美人、というのが面白いわけだ。名づけがピシャッと决まっている気持ちよさと言ってもいい。ここしかない位置に直球を放り込んだピッチャーに似た爽快感が、麻生久美子という名前にはある。芸名だろうから、精密なコントロールを持つスタッフがいたのだろう。「麻生久美子ってどうですかね?」と提案した瞬間、キャッチャーミットにズバンと球がおさまった音が響いたはず。

自分には名前というものに対するフェティッシュがあって、真木よう子の存在をはじめて知ったときも感動していた。響きそのものも美しいが、「よう子」と平仮名にひらいてあるのが良い。洋子でも陽子でも葉子でもなく「よう子」である。ピシャッと决まっている。この場合はむしろ、よく曲がる変化球で空振りをとった爽快感か。

だからあの頃は夜中にビールを飲むたびに、真木よう子の下の名前を平仮名にひらいた人間のことを絶賛していた。「よくぞ、よくぞひらいてくれた!」と。ポテチあるいは柿ピーを食べながら。そして同居女性に「うるさい」と言われていた。

酒を飲むと、ゴリラを褒めるか、aikoを褒めるか、真木よう子のようの部分が平仮名であることを褒めるか。これはたしかに、しらふの今考えてみれば、「うるさい」としか言いようがない。

真木よう子のようの部分が平仮名であることを祝って乾杯しても、グラスはむなしく空を切るだけだろう。人がグラスをカチンとやるのは卒業や就職や結婚のときであって、真木よう子のようの部分を祝うときではない。

パーティーをやると称して、若い男女を200人ほど集め、何を祝うかは事前に教えない。会場の中央には巨大なくす玉がぶらさがっている。スーツやドレスを着た男女が、「何のお祝いなんだろうね」と話し合っている。そこに鳴り響くファンファーレ、パカッとくす玉が開き、

祝! 真木よう子のようの部分が平仮名

会場の200人はポカンとする。そんな中で、私だけが浮かれている。待ってましたとばかりに指笛を吹いている。親指と中指で輪っかをつくり、ピョヒュッと間抜けな音を出している。

祝!真木よう子のようの部分が平仮名

ピョヒュッ

それが唯一の音だ。他は沈黙。200人の口は閉じられている。

何の音もしやしない。