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真顔日記

上田啓太のブログ

パピプペポの幼児性と成熟の問題

パピプペポが好きである。

五十音から好きな一行を選べと言われたら迷わずパピプペポを選ぶ自信がある。他の行には見向きもしない。カキクケコもサシスセソもパピプペポの前では霞む。とにかく口に出すだけで楽しくなって体温が上昇する。こんな行はパ行しかない。

むろん分かっている。世間には「五十音から好きな行を選ぶ」という発想自体をしない人もいるだろう。なんせ人々は多忙である。日々の仕事があり、家族や恋人との時間があり、余暇を埋めるための娯楽がある。何が楽しくて五十音の好きな行など考えなくちゃならんのか。

だが今はそのような人々を説得している余裕はない。申し訳ない。そういった意見はいったん存在しないことにして、人はみな私と同じように好きな五十音について考えていることにさせてほしい。

さて、ということで、ここからは「人はみな五十音に好きな一行がある」という前提で書きますが(ウキウキしますね)、正直なところ、私は自分がパ行を好むのをすごくベタな趣味だと思うんですね。こうして書いていても、ちょっと恥ずかしい。「パピプペポが好きである」という冒頭の一行も緊張して書いた。「それ言っちゃいますか!」と。

これは、いい大人が好きな食べ物を聞かれて「カレーライスとハンバーグ!」と答える恥ずかしさに似ている。あるいは好きなタイプを聞かれて「かわいくて巨乳の子!」と答えてしまうような。

あまりに洗練というものがないということですね。そんなに幼児性がむきだしのままでいいんですか、抑圧も自己批評も何にもないじゃないですか、ということ。

「パピプペポが好きなのは結構だが、もう三十なのだし、ガギグゲゴの濁りやナニヌネノのねばりけ、ラリルレロの巻きかげんにも目を向けてみてはどうかね? 私など十代の半ばにはパピプペポに飽きてバビブベボに注目していたものだが? まったく最近の若いもんは幼稚で困る。二十になってもパピプペポ、三十になってもパピプペポなんだからねえ……」

そんな(成熟した大人の)声が聞こえてくる。

だから私もいいかげん、パピプペポを好むことから卒業せねばならんのだが、しかし今こうしてパピプペポと入力するだけでも、ちょっと気持ちよくなってしまっているし、口に出して言った日には、「ああ、幼児的で結構……この魅力には抗えない……!」となってしまう。

パピッ!パププ!パッパパポポパープップピペッポ!ペペッポ!ペペポパパ!パパポピ!パペポパピッププ、ペポペポパパピ、パップッポ!パパパパパパッパ、パパ、ポッポ、ポッパッポ!パ!パ!ポッー!パ!パ!ポッー!

まったく、たまらない。

ちなみに、好きな一行を尋ねられて、「こいつ分かってるな、通だな、本物の大人だな」と思われるのは何か、これは自分もずいぶん考えたんですが、結論としてはアイウエオに尽きるでしょうね。つまり母音を選ぶこと。これはどんなジャンルでもそうでしょう。五十音におけるアイウエオは音楽におけるバッハみたいなもんですから。

しかも、パピプペポを通過した上でのアイウエオだと分かるのが、いちばん説得力を持つ。幼児的なものの魅力を熟知し、青年的なものの魅力も通過した上で、最終的に辿りついた境地がアイウエオなのだと分かること。これがいちばんかっこいい。

「好きな五十音? そうだね、パピプペポが好きだった時期もあるし、カキクケコやサシスセソにハマッたこともある。他人と違うようになりたくて、ザジズゼゾやバビブベボが好きだと言い張った時期もある。そんな俺も今じゃ三十代。これだけの期間、五十音と付き合ってきて言えるのは、結局どの行も語尾を伸ばせばアイウエオに行き着くということなんだよね。パッ、ピッ、プッ、と言いながらも、その影には常に、アッ、イッ、ウッ、という響きがあった。ガキの頃の俺はそれに気づけなかったんだな。アイウエオなんてつまんねーじゃん、と言ったこともある。若気の至りだったよ。ようやく好きな五十音はアイウエオだと胸を張って言えるようになった。Back to the Basic. すべてのはじまりであり終わりであるもの。それがアイウエオだからね」

こういうことを言うわけです、私の考える「成熟した大人」は。

ただのバカにしか見えないのは、きっと気のせいでしょうね。