真顔日記

上田啓太のブログ

今年の冬、鍋をつくることを覚えた

今年の冬、鍋をつくることを覚えた。男子、三十にして鍋を覚える。だから狂ったように鍋ばかり作っていた。といっても、スープは市販のものをそのまま使う。鍋ほど楽で、食べたいものを自由に食べられる仕組みはないと知った。

いちばんハマッたのは白菜メインの鍋である。あごだしじょうゆのスープを沸騰させ、白菜に豚肉、それからエノキと豆腐をいれる。あとは場合によって餅を入れるか、白米を炊いて、二日で食べる。楽で、あまり金もかからず、野菜も食える。良いことずくめである。

意外とむずかしいのは、鍋の味をキープすることだった。そもそもが一日に二食を二日間、計四回も食べようとすることに無理があるのかもしらんが、後半になるほど味がぼやけてくる。初日の昼は最高である。豚肉と白菜にシンプルなスープで、感激するほどの味になる。そのうまさには私もシャッポを脱ぐ。シャッポが何なのかは知らんがそれを脱ぐ。

しかし、徐々に味がぼやけはじめる。二日目の夜など、なかば義務感からスープを流しこんでいる。だらしない味になった鍋をズズズとすすりながら、初日の鍋のすばらしさを思い出している。むろんシャッポは脱がない。何なのか知らんし脱がない(辞書によるとフランス語で帽子のことらしい。"chapeau"と綴るようだ)。

白菜と豚肉の鍋にすこし飽きたころ、キムチ鍋のスープと大根を買ってきた。キムチ鍋に大根、と私は思った。この鍋は成功する予感がしていた。大根に包丁を入れたときから、祝祭のような雰囲気が台所に漂っていたのだ。

私は大根入りのキムチ鍋を三十一歳女性にも食べさせたが、そのリアクションは期待したもの(満面の笑みとともに放たれる「美味しい、最高、ありがとう!」)でなく、妙にむずかしい顔つきであった。

「たしかにおいしいけど、これ、皮むいてないよね?」

指摘されて気がついたが、私は大根の皮をむいていなかった。というか、大根の皮をむくという発想がなかった。大根に皮があるということすら知らなかった。

言い訳させてもらうならば、大根は身も皮も白い。身も皮も白いなら、もう身も皮も同じである。りんごも梨もみかんも、身と皮で、ろこつに雰囲気を変えている。神には大根もそのようにデザインしてほしかった。

三十一歳女性によれば、ニンジンも皮をむくらしい。このあいだ私が得意気に出した別の鍋でも、硬い皮が付いたままのニンジンがプカプカ浮いていたという。

こういうところから始めていかねばならんのだ、と思う。初心者であるというのは、そういうことなのだ。どの野菜の皮を剥き、どの皮は剥かないのか。どの部分を切り落とし、どの部分は残すのか。新しい野菜をまないたに置くたびに、自分が何も知らないことに気づかされる。シャッポが何なのかも知らなかったし。