真顔日記

上田啓太のブログ

音をそのままに聞く瞑想

夕方、近所の古本市に顔を出した。毎週决まった曜日にやっていて、文庫本もハードカバーも、何もかも百円で売られている。そんな値付けだから、たまに掘り出し物が見つかる。それが楽しくて、つい行ってしまうわけだ。

店主の老人に金を払い、本を袋に入れてもらい、受け取った。「ありがとうございます」と私は言った。自分で言うのもなんだが、私は店員との会話が丁寧である。自分より年のいった相手だからではなく、若い店員相手でも普通に「ありがとうございます」と言う。

店主の老人は「どうもありがと」と言った。

さて、最近の自分は瞑想にかぶれている。瞑想という言葉にもずいぶん広い意味があるが、私のやっているのは、「日常のさまざまな場面で起きている自動的な反応を観察する」というものである。

たとえば、人との会話を無意識にこなすのじゃなく、意識的に、初めて体験したことのようにやってみる。相手の声が自分の耳に入り、瞬時に自分の内面で反応が起こるさまを観察してみる。同じく自分の声も、観察するように聞いてみる。

なので今回、古本市での一連のやりとりを瞑想しながら行ってみたんだが、あらためて自分の発話を聞いてみると、早口になっているし、言葉は潰れているし、まったく「ありがとうございます」とは言えてなかった。

正確に聞いたところ、私が口に出しているのは「ニャスッ」という言葉だった。これはショックだった。丁寧どころか、日本語にもなっていない。

しかし、フェアな態度で老人のほうも聞いてみるなら、向こうも惰性で声が潰れている。「どうもありがと」と聞き取れたのは文脈で勝手に補正したからで、客観的に音の響きだけを聞くならば、「オボアビド」だった。

つまり、我々の会話は「ニャスッ」「オボアビド」というのが実際のところであり、丁寧うんぬん以前に、未開の部族である。

音をそのままに聞くというのは、すぐさま意味に流されてしまう人間の脳を、いったんリセットしてみるということなんだろう。人間の能力は素晴らしいというか、いいかげんというか、「ニャスッ」「オボアビド」という響きを、勝手に意味のあるやりとりに補正してしまうのだ。

そしてこの補正機能は、言い換えればフィルタなんだから、あまりに機能しすぎれば、「聞きたいものしか聞かない」ことにもなる。瞑想というのは、人間が無自覚にフィルタを起動させてしまうことを知り、まずはフィルタの存在に気づくこと、というふうに私は理解しているんだが、どうだろうか。

なお、「ニャス」「オボアビド」というのも、意味にはならないまでも、音を文字にしてしまっているから、本当はおかしい。このあたりは、もうすこし書かなくてはならないだろう。