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真顔日記

上田啓太のブログ

古語として出会いたかった言葉

罵倒に使われることばというのは、たいてい響きが面白い。

しかし、罵倒のことばは感情と強烈に結びついているから、その響きの面白さを味わうことはむずかしい。響きの面白さを味わうためには、言葉の意味にいったん退場してもらわねばならない。

たとえば「バカ、アホ、死ね、クソ」などの言葉は感情と強烈に結びついている。たいていの人は、耳に入った瞬間(あるいは、文字として目に入った瞬間)に感情が反応するだろう。感情が反応すれば意味が生まれる。意味が生まれれば響きは消える。「バカ」という言葉の響きだけを楽しむことは、現代の日本人にはむずかしいだろう。

しかし、小説なんかで古い罵倒の言葉を見ると、あまり感情と結びついていないから、その言葉の響きが、すばらしい迫力であらわれる。トウヘンボク、とか好きである。おたんちん、なんかも良い。スットコドッコイ、とか言われると嬉しくなりそうだ。

私は「ヤリマン」という言葉がすごく苦手、というかほとんど嫌いと言っていいほどで、絶対に使いたくない言葉のひとつなんだが、似た意味の「させ子」は好きである。もはや日常で誰も口にしないからだろう。「ズベ公」や「あばずれ」も良い。どれも響きが最高だと思う。

特定の言葉への嫌悪感というのは、特定の人間への嫌悪感と結びついているようで、私の場合、昔の知り合いにやたらとヤリマンという言葉を使う男がおり、その男のことが嫌いだった。その男への嫌悪感が、そのままヤリマンという言葉への嫌悪感につながっているようす。

だから、もし私が別の時代を生きていて、ヤリマンという言葉をひとつの古語として発見していたなら、好きになれていたのかもしれないということだ。フェアな態度でヤリマンの四文字を響きとして聞けば、悔しいけれど面白いし、キャッチーな響きだし、これだけ流行るのも分かる。

だから私は、ヤリマンという言葉と違うかたちで出会いたかった。いまや誰も使わない、黴びた書物に記された四文字として。たとえば平安時代の書物の一節にあったならば、この言葉おもしれえなあ、と素直に思えていたんじゃないだろうか。

 ひがしにやりまんありて
 かずかずのおのこをそそのかしけり

みたいな文章があったとして(文法合ってるかは知らん)、この「やりまん」て何だろうと思って古語辞典を引き、そこに「多くの男性と軽い態度で性行為に及ぶ女」と書いてあったら、「なんだそれ!」と思っていたんじゃないだろうか。「平安時代のやつらのセンス!」みたいに。