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真顔日記

上田啓太のブログ

前歯を出したギャング

「1000円出せ」

三十一歳女性が小部屋に入ってきて言った。私は流行りのJ-POPをあやふやな鼻歌でうたっていたので恥ずかしくなった。女は鼻歌の件にはノータッチでスッと手のひらを出した。口を真一文字にむすんでいたが、それでも前歯が出ていた。ずいぶん高圧的な前歯だった。私は前歯に目をやり、それから女の手のひらを見た。

ここにドングリをのせたら叱られるだろうか。

そもそも、なぜ1000円を徴収されなきゃならんのか。

そんな現実的な疑問がうかんだのでドングリのことを考えるのはやめた。この女から金を借りた記憶はない。一円たりとも借りていない。いや、いきなり家に転がり込んだ時点で金どうこうじゃない大きな借りはあるのだが、それは1000円じゃ払いきれないし考えたくもない。その方向に思考の舵を切るなら、私はいつまでもドングリのことを考え続ける。

言葉が足りなかったことに気づいたのか、女は「今夜、鍋にするから」と言った。鍋の材料を買うから半分出せということらしい。見事なくらいに言葉が足りない。「1000円出せ」とだけ言うのは完全に恫喝であり、ギャングの所業である。私は同居人のギャング化に怖れおののいてしまったよ。

1000円を渡すと女はスーパーに行った。「今日は鍋かあ」と思うと、さっきとは打って変わって楽しい気分になってきた。予期せぬ鍋ほどうれしいものはない。ひとりになった私は流行りのJ-POPを曖昧に歌うという作業にもどったが、心が弾んだせいかさっきよりもオクターブが上がっていた。

同居人のギャング的言動も結果的に鍋のサプライズを演出している。「1000円出せ」と不安にさせてから、「鍋にするから」と種明かしする。感情の変化をうまく利用している。はじめからすべて説明されていたなら、ここまで喜ばなかっただろうし、オクターブが上がることもなかっただろう。おそらく天然でやっただけだろうが、なんだか感謝のきもちが湧いてきて、鍋にドングリをたくさん入れてやろうとおもった。