真顔日記

上田啓太のブログ

ヤセ型の男を見ると人は予言者になるのか?

私はヤセ型の男である。十代で体型が定まって以降、ほとんど体重に変化がない。骨格も華奢である。肩幅のせまさと、手首のほそさがポイント。あちこちで「細いねえ」と言われながら生きてきた。

そんな私の経験で言うと、人は、ヤセ型の男を見ると予言者になる。私は十代のころからずっと言われてきた。

「25すぎたら太るよ」

これは、本当にひんぱんに言われた。年上が多かったが、同い年の人間にも言われた。なぜか年下に言われることまであった。とにかく「25すぎたら太るよ」と連呼されてきた。体型の話題になると、シメはこの予言だった。私はもう頭のなかで、勝手に「~であろう」と補完していた。

汝、齢25をさかいに太りはじめるであろう……。

誰もが予言者になっていた。一体なんなんだと思った。これは、人間という生き物を図鑑に登録するならば、絶対に特徴として書いておきたいことである。ヒト、雑食、二足歩行、指を器用に使いさまざまな道具を使用し地上に高度な文明を確立する一方で、ヤセ型のオスを見ると予言者になる奇妙な性質をもつ。

さて、私の場合、予言は外れた。25歳をすぎても太らなかった。「全然太らねえじゃん」と拍子抜けしたのを覚えている。すこしくらい太ってほしかったのに、あいかわらず鏡に映るのはガリガリの肉体である。だがその頃、予言者たち(知人たち)は口をそろえて言っていた。

「30すぎたら太るよ」

すこしだけ数字が変わっていた。あれには本当におどろいた。予言の微調整が行われている。そんな都合のよい仕組みがあっていいのか。ノストラダムスの予言は外れたが、すぐにマヤの予言が出てきたようなものか。1999年に人類は滅亡しなかったが、じつは2012年に滅亡するのだという、あのパターンを思い出した。

現在、私は34歳なんだが、まだ太っていない。30すぎても太らなかった。結局マヤの予言も外れたようなものか。ぜんぜん人類は滅亡しないし、ぜんぜん私は太らない。次の予言はいつだ。40歳か? 世界が滅ぶのと私が太るの、どっちが先だ?

私が太った直後に世界が滅んだりしたら、笑ってしまうと思う。人生の大半をガリとして生きて、デブとして死ぬ。どれだけトリッキーな人生なのか。

地球にせまりくる巨大な隕石。もはや避けることはできない。科学者の計算によれば衝突は数日後。死ぬ前に、会いたい人に会いに行こう。だれもが旧友と連絡をとりあうなか、再会の場にあらわれた見知らぬデブ。困惑する一同のもとに隕石が迫る。死の直前、全員の頭によぎる思いはひとつ。

「このデブ誰……?」

これは、色々とだいなし。滅亡直前に太りませんように。

野生の勘よりグーグルマップ

最近はまったく道に迷わなくなった。日常的にネットを使う環境にあるからだろう。スマホを出せばその場で道を調べられるから迷いようがない。これは地味にすばらしいことかもしれない。というのも、私はいわゆる方向音痴というやつで、以前はひんぱんに道に迷っていたからである。

十代の頃、はじめて遊びに行った友人の家から帰るとき、「10分ほど歩けば駅につくよ」と教えられて歩きだし、ひたすら歩き続けて1時間、深い森にいたことがあった。あれが人生で一番ひどい迷いかただった。何をどう間違えれば、駅のかわりに森につくのか(しかも深い)。

そのときはなんとか森を抜け、電車じゃなくタクシーでうちに帰った(最終の電車がなくなるほど夜が更けていた)。あとから聞いたところ、私は一度目の岐路で間違え、そのままひたすら間違った方向に歩き続けたようだった。その結果の深い森である。

道に迷うというのは、岐路で間違えるということだ。一本道で迷うことはない。そして岐路で間違えた時、正論を言わせてもらうならば、途中で気づいて間違えたところまで戻ればよい。少なくとも、自分が深い森にいると気づくまでに、このままじゃ絶対に駅には着かないと分かるはずなんだから、その時点でくるりと方向転換し、来た道を戻ればよかった。

だが、方向音痴の人間を支えるのは「妙な自信」である。あのころ、私は岐路のすべてを直感で処理していた。自分では、それを「野生の勘」と呼んでいた。右に行くか左に行くかは野生の勘で即座に決め、自信まんまんで進みはじめる。そしてひんぱんに迷っていた。

すこし考えれば分かるが、小学生のころからファミコンのコントローラーを握っていた男に野生の勘などあるはずがない。人生で一度も野生だったことがないくせに野生の勘がそなわっていると思っているんだから、のんきなものだ。そのまま深い森で十年ほど過ごしていれば、野生の勘も備わったんじゃないのか。

むかしの自分に皮肉を言っていても仕方ないが、これが方向音痴の人間のしくみである。そして、そんな私ですら最近は道に迷わない。すこしでも迷いそうになるとスマホでグーグルマップを見るからである。現在地も表示してくれている。これならば迷うことがない。野生の勘よりグーグルマップ。ファミコンで成長した男にお似合いの結論ですね。

「アイプチで白目をむく」という現象について

高校時代のクラスメイトに、やたらと白目をむく女がいた。

背の低い女子で、目が小さく、それをコンプレックスにしており、毎朝がんばって二重にするべくアイプチをするんだが、その影響で、喋っていると唐突に白目をむいてしまう。本人も自覚していた。

あの現象は何だったんだろう。アイプチで白目になるというのは、当時有名な話だった。私はいまいち仕組みを分かっていないが、アイプチの糊のせいで、まばたきのときに完全にまぶたが閉じなくなる? 中途半端に開いたままになる? それで、すこしだけ白目が見えてしまう?

疑問形だらけですまない。

とにかく言えるのは、アイプチで白目をむくのは致命的だということである。カワイイを獲得したくてアイプチしているのに、白目というのはカワイイの正反対だろう。

目は一重だが喋りながら白目をむかない女と、ぱっちり二重だが喋りながら白目をむく女では、どちらが魅力的なのか。そんな問いも生まれる。白目をむくリスクと、二重になるリターンは、どちらが大きいのか。

なんだか、能力者バトルみたいでもある。冨樫義博あたりに描いてほしい。主人公の女子が師匠に出会い、特殊能力「アイプチ」を獲得するのだ。これを使うと二重になれるが、まばたきのとき白目をむいてしまうリスクもある。ぱっちり二重にするほど、白目の確率もあがる。これは戦略性がある。少女マンガ的な主人公が、少年マンガ的な物語をやると、こうなるんじゃないか。

日常生活では、いかに白目をむかずに二重になるかが試される。たとえば自撮りの瞬間だけ能力を発動させ、すぐに戻す。それなら白目に気づかれることもない。デートの時は、ここぞという場面でだけ二重になればいい。見つめあう瞬間だけ能力発動だ。しかし、あまり長々と二重になってはいけない。彼の前で白目をむくのは致命的だからだ。

しかしある時、なにも知らない彼は提案してくる。一泊二日の温泉デート。もう絶対にごまかせない。それでも好きな人への想いは止められない。初日の夜、限界をこえたアイプチの発動。デート開始より物陰で見ていた師匠がさけぶ。

「もうやめろ、それ以上アイプチすると、死ぬまで白目ですごすことになるぞ!」

「それでもいい……今この瞬間に二重でいられるなら……今、シュン君にかわいいと言ってもらえるなら、これで最後でいい、これが最後の二重になってもいいッ!」

「やめろーーーーーーッ!」

ということで、シュン君とのデート中にずっとぱっちり二重だった主人公は、その後は自分の部屋で正座しながら、ずっと白目をむいている。口からはよだれダラダラ。限界をこえてアイプチしたんだから当然ですね。

マンガ喫茶バイトの思い出

マンガ喫茶でバイトしていたことがある。あの仕事はよかった。すばらしく暇だった。何をすることでもなく一人でカウンターに立っていることが多かった。「労働」と「ぼんやり」の境界線が溶けてゆくのを感じていた。

想像がつくと思うが、マンガ喫茶では、客は受付をすますと、みんな勝手にマンガを読みはじめる。もはや店員は必要ない。食事を頼むときくらいだ。それに食事といっても、私の働いていた店は冷凍ピラフや冷凍チャーハン、それに冷凍のタコ焼きを出すだけだった。どれもレンジでチンするだけである。

店のマニュアルには、「レンジのチンの音は絶対に鳴らさないようにしろ」と書いてあった。客に聞こえるとイメージがよくないからだろう。これはいま思い出すと笑う。そりゃ客だって、バックヤードで三つ星シェフがチャーハン炒めてくれてるとは思ってないだろうが、それでも向こうから「チン!」という音がきこえて、そのあと店員がチャーハンを持ってくれば色々と考えてしまうだろう。

だから、あたため完了の残り数秒、正確にはレンジの数字が「1」になった時点で、すばやく扉をあけるきまりだった。たまに他の作業が忙しく、音が鳴ってしまうと、ミス扱い。すこしだけ場がピリッとしていた。

あの頃は、とにかく掃除ばかりさせられていた。店長はバイトをボーッとさせたくないんだが、やらせるにも仕事がない。だから「掃除」という半永久的にできる作業が生まれる。店に店長がいるときは、バイト全員、潔癖症のようにひたすら掃除をしていた。床を拭き、空いている個室を掃除し、マンガを包んでいるビニールを拭き、トイレを掃除し、バックヤードも掃除し……。

もっとも、これは店による。店長がゆるいところだと、バイトは平気でサボッている。一時期、客として通っていたマンガ喫茶があったんだが、あの店はひどかった。受付のバイトが若い男女二人なんだが、その二人が、まったくバイトらしさを漂わせていなかった。つまり、接客業特有のうそくささ、作り込まれた元気のよさがなく、むきだしの男と女として、カウンターに立っていたのである。まるでジョンレノンとオノヨーコのように。

もちろん、声もまったく張らない。男のほうが店のシステムを説明するが、女はただ隣に立っているだけで、笑顔もなにもない。気だるそうにしている。二人の背後には薄暗い事務室が見える。こいつらあの部屋でヤッてんじゃないか、という雰囲気があった。

すこし前に調べたら、その店は潰れていた。そりゃそうだろ、と思った。あんなにみだらな接客をされると落ち着かない。接客がみだらということありますか!

なぜ十代の頃はあんなに徹夜していたのか?

なんだかんだで徹夜をしなくなった。年をとると徹夜がキツくなるなんて話を、むかしは他人事のように聞いていた。十代後半から二十代にかけて。しかし三十歳をすぎた今、たしかに徹夜はつらい。意味もなく夜更かしなどしたくない。夜は眠るための時間だ。

そもそも最近は、徹夜などする意味もない。徹夜する場合、単純にスケジューリングの失敗を意味する。当時はなぜ、あんなに意味もなく徹夜していたのか。たとえば大学のテストがあるから徹夜、友達とカラオケに行けば徹夜、酒を飲むときもだれかの家で徹夜、眠くなったやつから脱落して雑魚寝。

マンガ喫茶のナイトパックで朝までマンガを読み続けるという行為もひんぱんにしていた。あれはなんだったんだろう。なぜあんなことが可能だったのかわからない。最後はいつもボロボロになっていた。

そう、ボロボロにはなっていたのだ。十代だろうが、徹夜でマンガを読めばボロボロになる。ピンピンしているわけではない。夜どおし、マンガ喫茶の狭いブースでマンガを読み、朝の七時頃に店を出ると、朝日の強さで目が潰れそうになる。身体はこちこちになっている。その記憶はある。

カラオケで徹夜というのも、いまいち意味がわからない。昼から歌えばよくないか? 昼はそれぞれ学校やバイトが忙しかったのか? それとも単純にうれしかったのか? 自分の判断で朝まで起きていられることが? ああ?

過去の自分にメンチを切っていても仕方ないが、本当に、徹夜に対するモチベーションは分からなくなっている。絶対に徹夜などしたくない。何度でも言いたい。夜は眠るための時間だ。

高校生のとき、ドラゴンクエスト5をブッ通しの徹夜でクリアした。ぼんやりとエンディングを眺めていたら、旅立ちの村の神父に、「あなたが旅立ったのが、まるで昨日のことのように思えます」と言われた。

旅立ったの、マジで昨日なんだけど。

コントローラー片手に、しょぼしょぼした目で思っていた。「昨日のことのように」とかじゃなく、ガチの昨日。私は昨日旅立ち、今日魔王を倒した。このスピード感、もっとほめてほしい。クリーニング屋に出したシャツが戻ってくるほどの時間で世界を救う男がいるか。

まあ、神父に言っても仕方ないことではあったが。あの人、完全にドット絵だったし。