真顔日記

上田啓太のブログ

カラスという黒いチンピラについて

いつもの通り道に細い路地がある。たまに塀の上にカラスがとまっていて、そんなときは通りすぎるのに緊張する。私はカラスとタイマンして勝てる自信がない。とくに路地のような狭いところでは。

だからできるだけカラスと目を合わせないように、存在感を消して通り過ぎる。カラス様のご機嫌を損ねないように、しずしずと歩くのである。図体は私のほうがでかいというのに。

このあいだは両方の塀に一羽ずつカラスがとまっていて、さすがに迂回した。何なんだと思った。RPGか。中ボス戦か。

カラスに対する恐怖感のルーツを辿っていくと、子供のころに親戚の家で読んだマンガが思い出される。いかにも昭和的な古い絵柄のもので、作者は分からないんだが、表紙で女学生がカラスに目玉をついばまれていた。まだグロいものに耐性がついていない時期だったので、数日ほど尾を引いた。あれでカラスには勝てないと刷り込まれた気がする。目玉ついばまれるんだもん。

日常で見かける鳥として、ハト、スズメ、カラスと並べてみた時に、やはり一羽だけ、カタギじゃない鳥が混じっているだろう。ハトなんてのは歩くたびに頭を前後に動かす馬鹿だし、スズメというのは地べたでチュンチュン言うだけの雑魚である。対峙したところで何の緊張感もない。しかしカラスは無言でジッとしているし、くちばしを開けばアーッと恐ろしい声を出す。何故あんなものが日常にいるのか。警察は何をしているのか。反社会勢力を野放しにしたままでいいのか。暴対法は機能していないのか。

私はスズメとタイマンすることになっても、試合の一時間前まで平気で寝ていられる。あんなもんに戦略は不要、蹴飛ばしゃ終わりである。しかしカラスとタイマンするとなれば前日の夜からガタガタ震える。実家の母親にも電話をいれる。明日カラスとタイマンすることになったから……。ふるえる声で言うはずだ。感情のたかぶり如何では、生んでくれてありがとう的なことまで言いかねない。カラスきっかけで親子愛に覚醒。あの黒いチンピラには勝てない。

キャッチーなメロディをすぐに口ずさんでしまう

aikoの『恋をしたのは』がずっと頭のなかを流れている。『聲の形』という映画の主題歌になっていた。これがずっと流れている。そして頭のなかを流れるメロディは口に出されることを求めるので、私は小部屋でずっと歌っている。もっとも、「あ~あ~あ~あ~恋をしたのは~」というところだけで、あとはホニャホニャ的ごまかしによってまだ歌詞を覚えていないことを隠蔽している(隠蔽できとらんが)。

aikoの曲で初聴から覚えられるものは意外と少ない。最近の曲だと『合図』は一発で持ってかれたが、基本的にじわじわと良さが分かってくる曲が多い。去年出たアルバムに収録されている『蒼い日』なんか、最初のうちはなんとも思っていなかったのに、現在はイントロだけで感極まる状態になっている。

とくに注目していなかった曲に「これめちゃくちゃ良いじゃん!」と気づく。aikoを聴いているとひんぱんに起きることである。そして「俺はいままで何をきいてたんだ」となる。aikoふうに言うならば「あたし今まで何をしてたのか」。まあ、aikoの曲の良さに気づくことをaikoふうに表現するというのは、ヘビが自分のシッポ食ってるみたいで訳分かりませんが。

頭のなかを流れる曲は定期的に変わる。いつもaikoとはかぎらない。

一時期、浜田省吾の『もうひとつの土曜日』の歌い出しの「ゆうべ眠れずに泣いていたんだろう」という部分だけが異常に流れていることがあり、そのころは居間を横切るたびに私が浜省になるから同居人が激怒していた。中途半端に声マネしているのも問題だった。これはまさに「中途半端」と言うしかないもので、「やや声を低めにして、もったりと歌う」というくらいのことである。

「クオリティ」と同居人は言った。「上げる努力して」

しかし私は努力しなかった。するわけがない。

日々、小部屋からニセ浜省が出てきては、「ゆうべ眠れずに泣いていたんだろう」と歌い、台所で麦茶を飲んで、ふたたび「ゆうべ眠れずに泣いていたんだろう」と帰っていく。これはまあたしかに、同居人目線で見れば、「うんざり」としか言いようがない。

「ゆうべ熟睡してたし」

たまに言われていた。

一度、テイラー・スウィフトの曲が頭の中を流れていることがあった。とくに好きなわけではない(というかそもそもよく知らない)んだが、メロディは関係なしに感染する。「シェキ、シェキ!」と連呼する曲で、それを歌いながら居間に出ていったときは同居人に爆笑された。浜省のときとはちがい、ウケにウケていた。「意外性がすごい」と大絶賛だった。

「テイラー・スウィフト、上田からいちばん遠いところにいるからね!」

たなぼた的大ウケ。

しかしまあ、たしかにテイラー・スウィフトと自分のあいだには、人間であること以外、何の共通点もないと思う。二人で飲みに行けば二秒で話題が尽きる自信がある。私もあなたも人間ですよね、というところから探っていくしかない。あなた、酸素を吸って、二酸化炭素を吐いてると聞きました。じつは、僕もそうなんですよ! そんな話で、テイラーと盛り上がることができれば。 

近所に大戸屋ができてほしいという祈りにも似た気持ち

私はほとんど自炊をしない。だから近所にある飯屋で日々の食事が决まる。これは同居人もそうである。行きつけの飯屋を五つほど用意して日々をまわしている。そんな食生活である。

しかし近所にふつうの定食を食べられる店がない。中華、牛丼、カレーはある。パンや麺類もある。インドカレーにナンをひたして食べられる店まである。なのに、ごはんに味噌汁、主菜に小鉢という日本的フォーマットで出てくる店がない。

自分の住んでいるあたりの問題なのか、意外とそういう場所は多いのか、とにかくそんな日々を過ごしているから、私と同居人のあいだに、「近所に大戸屋さえあれば……!」という祈りにも似た気持ちが生まれている。

もっとも、最後に大戸屋に行ったのは二人とも十年ほど前で、私はむかし東京に住んでいたころ、立川駅近くの大戸屋に通っていた。そして同居人は河原町で働いていたころ、会社の昼休みによく大戸屋に行っていた。

対象が日常から消失し、記憶の中にのみ存在するようになったとき、その評価は極端になるもので、われわれのなかで、大戸屋はどんどん輝きを増している。価格と味のバランスが絶妙だった(気がする)。とろろ御飯がものすごくおいしかった(気がする)。大戸屋に行ったときはいつも幸福な気持ちで店を後にしていた(気がする)。

大戸屋の話題になるたびに、われわれは「あの店はよかった」、「あの店があれば日々が輝くのに」、「あの店のない日々などカスにすぎない」とエスカレートし、いまや大戸屋は、伝承の世界にのみ存在する幻の名店のようになっている。

だから生活圏で店が潰れるたび、われわれは「大戸屋になれ」と念じている。ひとつの店が消えるということは別の店が入るということで、当然そこに大戸屋が入る可能性もあるわけだが、しかし願いが叶ったことはなく、たいていは、どうでもいいような店が入る。

このあいだ、またひとつ店がつぶれた。

しばらくして工事がはじまった。二階建の古いビルを壊し、新たな何かを作っていた。われわれはひたすら、「大戸屋になれ……!」と念じていた。工事現場の前を通るたびに大戸屋を思い、『思考は現実化する』というタイトルだけ聞いたことのある本を参考に、大戸屋もまた現実化するのだという強固な信念にもとづいて、「来い、大戸屋、来いっ……!」と念じ続けていた。

結果、学習塾ができた。

こうしてわれわれの思いはまたしても裏切られたのであり、三十すぎの男にとって学習塾ほど生活に無縁のものもなく、しかも二階建のビルなのに一階も二階も学習塾、われわれは「生徒募集中!」という無神経な文字を呆然と見つめ、私は今回も大戸屋を与えられなかったことに落胆の色濃く、同居人もまた大戸屋を想って悲しみの色深く、学習塾を指さすと私にむかって吐き捨てたのだった。

「あんた通えば?」

誰が通うかよ。

思考は現実化する_アクション・マニュアルつき

思考は現実化する_アクション・マニュアルつき

 

チューリップのサボテンの花

一年ほど前に『岬めぐり』という曲のことを書いたんだが、それ以降、けっこうな数の人が曲名で検索してこのブログに来ている。昭和の曲だから、あまりネットに情報がなかったのかもしれない。私のブログにまともな情報はないがいいのか。そんな心配をしながらアクセス解析を見ている。

このあいだは、濁点を忘れている人がいた。「岬めくり」で検索してきていた。それで一人でウケていた。カルタのように気軽に岬をめくる。だいだらぼっちの発想ですね。

私がリアルタイムできいた音楽は90年代以降のものだが、中学生のころに家にあった昭和名曲集とかいう十五枚組のCDを聴いていたから、80年代以前の曲もわりと知っている。古い流行歌には特有の楽しさがあって、それは一人のアーティスト(たとえばaiko)を熱心に聴く体験とはすこしちがう。それぞれの歌手の個性にふれるというよりは、もうすこし大きな何かにふれるという感じだろうか。

早朝に居間でランダムに流すことが多い。心の準備なしにフッと耳にすることで、あらためて曲の良さを知る。流行歌は不意打ちでこそ生きるものなのである。今日は、不意打ちで聴いた『サボテンの花』(1975)がすごく良かった。「ほんの小さな出来事に愛は傷ついて」という歌い出しの曲。

あわせて口ずさんでいると、化粧中の同居女性にきかれた。

「これなんて曲?」

「チューリップのサボテンの花」と私は言った。

「は?」と女性は言った。

それで気づいたが、「チューリップのサボテンの花」というフレーズは無駄にややこしい。要するに、チューリップというグループのサボテンの花という曲なんだが、音声にしてみると支離滅裂で、馬鹿が寝言をほざいた印象になる。

「結局なにが咲いてんのよ?」

鏡に向かって、化粧したまま言われた。たぶん、咲いてるのはサボテン。

今後、この曲を説明するときは気をつけようと思った。そんな機会があるのかは知らんが。チューリップのサボテンの花。これは絶妙にまぎらわしい。「クフ王の仁徳天皇の墓」みたいな感じ。ピラミッドなのか古墳なのか。

談話室におけるネコたちのガールズトーク

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ネコというのは、気温に敏感に反応する。だからネコを飼っていると、季節のうつりかわりをネコのねむる場所で気づくようになる。木々の色づきでも、風の香りでもなく、ネコの寝場所である。風情があるのかどうなのか。

夏、ネコたちは個人主義者である。それぞれの好きな場所で、腹を出して寝る。くっつくことは少ない。単純に暑いからだろう。家のあちこちに散らばっている。そこで求められるのは冷んやり感である。フローリングが人気である。

しかし秋冬はちがう。肩を寄せ合う。ぬくもりのもとに集まる。人気になるのはコタツである。ホットカーペットのうえで、だらしない姿になるのも日常だ。フローリングの価値は暴落している。このへんは見事に変わる。

冬にネコの身体をさわると、右側面だけぬくぬくしていることもある。左側面はふつうである。そして顔は寝起きである。どちら側をカーペットにつけて寝ていたのか、一瞬でバレてしまっている。まあ、バレても全然構わんのだが。

今日は、うちのメスネコ2匹がひとつのぬくもりのもとに集まっていた。ヒーターである。さらに同居女性もいた。我が家の女が勢ぞろいだった。ぬくもりを求める気持ちは、ヒトもネコも変わらないということか。

「談話室だよ!」

妙に嬉しそうに言っていた。ずいぶん古くさい言葉を使うもんだと思ったが、ヒーターの商品名が「談話室」というらしい。ヤケドをすることがないから、ネコ飼いたちの間で人気だそうだ。たしかに、ネコたちは平気で顔面や肉球を押しつけている。

「ガールズトークしてるんだよ!」

女性は続けた。しかし、ネコ2匹は完全に寝ボケていた。そして、ねむそうな顔のネコというのはたいてい老けこんでいるものだから、とてもガールズには見えなかった。どちらかといえば祖母であった。グランドマザーズトークである。おもに戦前の話。