真顔日記

上田啓太のブログ

イケメンが動くとかっこいいんだなあ

このあいだ坂口健太郎という人を映画で見て、そのかっこよさに衝撃を受けた。それまで名前といくつかの画像を見たことがあるだけだったんだが、はじめて動いているところを見た。しばらく呆然とながめていた。言葉が出なかった。しみじみと思った。

「イケメンがうごくと、かっこいいんだなあ」

多少、相田みつをみたいになっていた。私は胸がときめくと相田みつをになるのか。

ふだん映画やドラマをあまり観ないため、俳優や女優はネットの小さな画像だけで認識している。その状態では美しい顔立ちにもそれほどの破壊力が生まれず、「まあ、たしかにかっこいいですよね」と、適当な距離をとって見ることができる。しかし実際に動きはじめるとなれば話は別だ。坂口健太郎の動く姿を見てそれを思い知った。

観ていたのは『残穢』というホラー映画で、坂口健太郎は若手作家として登場する。めがねをかけており、髪はぼさついていた。やや癖のある役回り。かっこいい素材に変化球の味つけをしてみましたという感じ。それでも後半に坂口が登場して以降、意識の半分は坂口を追うことに奪われた。ホラー映画であることを忘れた。

その後、もっと坂口健太郎の出てくる映画を観てみたいと思い(完全にハマッている)、『君と100回目の恋』というのを観た。タイトルからも分かるとおり、こちらは恋愛ものであり、坂口健太郎は主人公の女が想いを寄せる相手として登場する。

これはすなわち、坂口健太郎をかっこいい男として描く必要があるということであり、脚本、演出、衣装、そのすべてが坂口をかっこよく見せることに向けられるのであり、もともとかっこいい男をプロの大人たちが寄ってたかってかっこよく見せようとする状況が勃発しており、それでどうなるかといえばかっこよくなるわけであり、私は本当にかっこいいと思いました(胸がときめくと語彙もへるんだなあ)。

君と100回目の恋

この映画では、「坂口健太郎にこんなことされたら最高だよな」と思うようなことをだいたい実際にやってくれるので、観ているとだんだん気持ちよくなってくる。

まず、序盤の坂口は主人公に冷たい。まったく笑顔をみせないし、「おまえの言うことくらい読めんだよ」と偉そうに上から言ってくる。周囲の人間には「イヤミなくらい完璧なやつ」と評されている。まったく付け入るすきがない。

しかしもちろんそれは主人公への恋心を隠しているからで、中盤で坂口がある秘密を打ち明けてからは態度が豹変、とにかく坂口の求愛がとまらない。こちらをジッと見つめて、「おまえのこと好きだよ、はじめて見たときから」と言ってくる。スッピンの女が深夜に缶チューハイ飲みながら「カーーッ、言われてみてぇー!」と絶叫しそうなシーンの連続。

一番よかったのは、主人公と坂口をふくめた仲良し五人組で夜の浜辺にいる場面。

向こうの空にUFOが見えたと一人が言い出し、興奮したみんなが次々と走り出す。主人公もそれを追いかけようとするが、坂口がその腕をグッとつかんで引き戻し、そのままギュッと抱きしめる。あれはずるい。刹那に生まれた二人きりの時間を利用したハグ。ときめきでおもらしする。

あと、この映画のキスシーンはすごくて、「坂口健太郎にこんなキスをされたい」という願望から逆算したとしか思えない状況になっている。

具体的にはこうである。主人公が大学の図書館で高いところにある本を取ろうとしている。本棚の前にはなぜかすでにハシゴが用意されている。庭師が使いそうな、両側から登ることのできる本格的なハシゴである。主人公はハシゴに登り、がんばって本を取ろうとするんだが、なかなか届かない。えいっえいっ、と手を伸ばしている。するとそこに坂口が登場し、ハシゴの反対側から登ってきて、スッと本を取ってくれる。そして二人はそのまま見つめあう。

この時点で、「いやいや、もう平成も終わるのに……」と私は元号のことを考えていた。高いところの本を取ってもらうという、いにしえからありそうな定番中の定番を、まさかこの時代に見せられることになるとは。

だいたい、この図書館にはなぜ二人以外に誰もいないのか、大学の図書館にこれほど人がいないことあるか、司書すらいないように見えるがどうなのか、主人公はなぜあんな高いところの本を取ろうとしたのか、背表紙すら見えない高さなのになぜ取ろうとしたのか、本当にその本を読みたいと思っていたのか、なぜ坂口は都合よく登場したのか、あらゆる偶然がこんなにもあからさまに重なって、一つの状況を作りだすことがあるか!

そんなふうに無数の疑念がわいてきたんだが、そのまま坂口健太郎がキスしてきたので心が停止した。もうどうなってもいい。

スーパーのテーマソングは不思議とポジティブ

近所にイズミヤというスーパーがある。関西人なら説明するまでもないだろう。しかし他の地域の人には聞き慣れない名前だろうか。スーパーの名前というのは非常にローカルなもので、すこし場所が変わると途端に通じなくなるからだ。 

子供の頃、私は石川県に住んでいたんだが、「ニューサンキュー」というスーパーを全国的なものだと思っていた。しかしあれも地元限定だったようだ。いま思うとへんな名前である。ニューサンキュー。新たなる感謝。分かるようで、よく分からない。

当時、私の母親はあの店を「サンキューさん」と呼んでいた。小学生の私も真似をして、「ちょっとサンキューさん行ってくる!」と元気に家を飛び出していた。ものすごく牧歌的だ。サンキューをさん付けするだけで、ここまでほのぼのしてしまうのか。

東京の国分寺に住んでいた頃、近所に「いなげや」というスーパーがあった。国分寺では名の知れたスーパーのようだったが、私は最後まで慣れることができなかった。どうしても「いな毛や」と認識してしまい、身体のどこに生えているのかを探してしまう。できれば、いな毛は切っておきたい。なんだか恥ずかしいし。

現在にもどろう。いなげやではなくイズミヤの話である。イズミヤに行くと店のテーマソングがずっと流れているんだが、そのたびに「なんなんだこの歌は」と思う。こんな歌詞である。

君の声が しぐさが その笑顔が
気づけばほら どんなときも すぐそばにあったよ
いまありがとうに 大好きのおもいをのせて
大切なきみへおくるよ
サンキュー・フォー・ユア・ラブ

この、妙にポジティブな歌詞は何なのか。「妙に」というのは、前向きさの意味がいまいち分からないからである。どこにも辿りつかないポジティブさ。

歌い手はイズミヤであり、「君」というのは客のことなのか。なにかに感謝しているのは分かるが、その対象がわからない。ものすごく観念的なやりとりをしている。実際に店舗でやり取りされているのは、商品と貨幣である。音楽は上のほうで流れている。上空で観念がやりとりされ、下層で商品がやりとりされる。マルクスが言っていたのはこういうことだったのか(ちがう)。

まあ、毎日使う場所だしポジティブな言葉がいいでしょ、というだけなんだろうが、なんとなく引っかかっている。なぜそんなに前向きなんだ。非常に不思議なポジティブさだ。虚空にむけてポジティブを放り投げるかのような。

太るための才能がない

二ヶ月ほど筋トレをしているんだが、食事量はとくに増やしていない。一日に大きめの食事を一回と、パンなどの軽めの食事を一回。一日に一食半といったところだ。べつに小食のポリシーがあるわけじゃなく、自分の食欲にあわせるとこうなった。

しかしどれだけ筋トレしても、この食事量だと身体はそれほど大きくならない。それでどうしようかと悩んでいる。身体を大きくするならば食事の量と回数を増やさなくてはならないが、これが非常にしんどいのである。

むかし、岡田斗司夫のダイエット本で「デブとは太るための努力を惜しまない存在である」という一文を読んだ。あれがよくわかる。もちろん岡田斗司夫は皮肉として言ったわけだが(ダイエット本だし)、私はもう皮肉でもなんでもなく、太るために努力できる人には尊敬の念をおぼえる。とくに筋トレをしているときは。

私は日々の食事をルーチン化するのが好きで、コンビニで買うものや定食屋で頼むものは、すぐに固定してしまう。食べ物のことを考える時間がへると嬉しくなる。人生における食事の時間は、少なければ少ないほどよいと思っている。

これが「太るための才能がない」ということなんだろう。無自覚に努力できる人間には才能がある。というよりは、才能がない時にだけ「努力」などという野暮ったい言葉が登場するのであり、その意味で、私にはまったく太る才能がない。

めし好きの才能とはどのようなものか

めし好きの人間と行動していると、基本的な行動原理がちがうことを実感する。言動のふしぶしに、「この世界のどこかにもっと美味しいものがあるはずだし、私はそれを絶対に食べるべきだ」という信念を感じるというか。

このあいだ、めし好きの女子二人組とコンビニに入る機会があったんだが、私が5分で会計をすませたあとも二人はずーっと店内を物色しており、才能のちがいをひしひしと感じた。買う気のない商品までいちいち手に取っては感想を言いあい、さらにレジ近くのおでんコーナー前に立つと、二人でひそひそと何かを相談している(たぶん「どの具が一番おいしそうか」みたいな話)。

この二人は「食べたいものリスト」みたいな紙をいつも持ち歩いていて、そこに店の名前をズラーッと書いている。街を歩いていても、知らない店を見つけると立ちどまってチェックしている。よさそうだと思えばスマホで看板を撮影し、ますますリストが充実していく。

そのあげく、「太っちゃうんですよねー」とか言うんだが、これ、ブラジルのサッカー少年が毎日夢中でボールを蹴りつづけたあげく、「うまくなっちゃうんですよねー」と言うようなものじゃないのか。天才の発言はこれだから困る。その脂肪は才能の証明でしょう!

最近になるまで、私は本屋にたくさんのグルメ雑誌が並んでいることにピンときていなかった。テレビのグルメ番組もそうである。どうしてそういうものが大量に存在しているのか、いまいち分からなかった。ダイエットという言葉がやたらと飛び交うことも疑問だった。「カロリーオフ」が売り文句になることも納得がいかなかった(むしろ損をした気持ちになる)。

もしかしてみんな、自分が思っていたよりもずっと、食べることが好きなのか。

才能のない人間ほどカロリーを気にする

一時期、スタバでコーヒーではなくソイラテを頼むようにしていた。そのときも私は体重を増やそうとしていたんだが、顔見知りの店員に言うと「べつにソイラテじゃ太らなくないですか……?」とつっこまれた。

このへん私は天然というか、ズレにズレている。ブラックコーヒーをソイラテにかえて太ろうというのが、そもそもヤセ型の発想なんだろう。しかし当時の私はわざわざカロリーも調べていた。コーヒーSが10kcalで、ソイラテSは140kcal。「14倍! すごい太っちゃうぞ!」と嬉しかった。

おそらく、本当に太りたければフラペチーノのでかいやつでも飲めということなんだろうが、こうなると大変な努力が必要になる。過去に二度ほど飲んだことがあるんだが、フラペチーノを日常的に飲める人間、すごくないですか。自分のなかで、あれはディズニーランドと同じところに入っている。人生で何度か行ければいい。フラペチーノはアミューズメントパーク。

しかし、そうやってソイラテSで太ろうとしている男の横には、「好き」という気持ちだけを原動力にダークモカチップフラペチーノのグランデサイズ(500kcal)を飲んでいる客がいたりするわけで、そそりたつ才能の壁に絶句する。

いちいちカロリーを確認するあたりもヤセ型なんでしょうね。せせこましいというか、けちくさいというか、いかにも太る才能のない人間がやりそうなことだ。天才はカロリーなんて考えない。そういう次元で生きていないのだ。

先述のめし好き女子もそうだった。「食べた分だけ運動しようかな」と言われたので、私は純粋な善意から、ジョギングの消費カロリーはこれくらいだがごはん一杯のカロリーはこれくらい、運動でやせるよりも食べる量を減らしたほうがずっと早いんじゃないかと提案したんだが、

「でも私、ああいう数字ぜんぶ、うそだと思ってるんですよ」

そう返されて話が終わった。カロリーという概念自体が「うそ」の二文字で切り捨てられていた。圧倒的な才能の差を感じた。うそなわけないじゃん! 数値として出てるのに!

以前、サンドウィッチマンの伊達みきおが「柿の種ってすごく小さいし、カロリーゼロだと思うんですよ」と言っていた。あのときの衝撃を思い出した。ほんとにもう世の中天才だらけ。全然ついてけない。太るための才能ないです。

 

いつまでもデブと思うなよ・電子版プラス

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カフェと狂人

スタバで文章を書いていたら、隣の席に男がやってきた。「ペッペラペッペラピッピッピ♪」と歌いながら歩いてくる。たぶんオリジナルソングだろう。それで私の身体に緊張が走った。頭のおかしな人間だと思ったからである。

カフェにおいて隣に頭のおかしい人間が座るのは緊張するものだ。実害はないにしても、ペッペラピッピの歌を隣でえんえん歌われた場合、集中できたものではない。

この男については、そのあと友人らしき男がやってきて普通に会話をはじめたので、頭がおかしいわけではなく、ゴキゲンな時に少々おかしな歌を歌ってしまうだけだと分かった。ややうるさいくらいで、それならばイヤホンをして音楽を聴けばいい。

カフェに通うようになると気づくことだが、街には一定数、狂気の世界に行った人々がおり、カフェの常連になっている。この街をうろつくようになってからの七年で、私は三人の狂人を見た。

一人は中年の男で、だぶだぶのシャツを着ており、いつも独り言をぶつぶつと言っている。丸テーブルの座席に一人で座り、向かいの席の人間と話し込んでいることもある(誰もいないのに)。

もう一人も同じく中年の男で、こちらは太っており、めがねをかけている。レンズが汚れて色眼鏡のようになっている。この男も一人でぶつぶつとつぶやいている。この男には店内を定期的に移動する癖がある。つまり、ひとつの席から別の席へ移動し、しばらくすると、また別の席へと移動するのである。もちろんカフェでは席の移動は自由だろうし、私もたまにやるが、この男はそこに何ら法則性が見えない。ただずっと移動し続けている。

最後は、おばさんなのか、おばあさんなのか、年齢不詳の女で、常にベビーカーを押しながら街を歩いている。しかし、そこに赤ん坊は乗っておらず、かわりに赤ん坊の人形が二体乗っている。これはよく通行人に二度見されている。私はもう見慣れているので二度見はしない。

昔、カフェでバイトしていたことがあったが、そのときも一人、常連に頭のおかしいおばさんがいた。その人は、人間に笑顔を向けられると、自分を馬鹿にして笑ったと解釈するようだった。最初、いわゆる営業スマイルでニコッと笑ったら「何がおかしいのよ!」と怒鳴られ、くしゃくしゃのレシートを投げつけられた。以降、その人を接客するときは笑ってはいけないことになった。

別の喫茶店で働いていた時も、常連に情緒不安定なおばさんがいた。この人は、機嫌のいいときは「あんたたちは朝から大変だから」と言って、代金とは別に小銭をにぎらせてくる。しかし機嫌の悪いときは、普通にコーヒーを出しても「なんなんだこれはッ!」と怒鳴られていた。「コーヒーです」と言いたくなるが、申し訳ありませんと言って、新たにいれなおしていた。

このおばさんが、店内で他の常連のおっさんに胸を揉ませて1000円受け取っているのを見たことがある。今思うとめちゃめちゃな店だった。変なおっさんとおばはんが大量にいる街だったから、私も麻痺していたのかもしれない。「1000円かあ」と、値段のほうを気にしていた(相場がわからなかったので)。

どんどん思い出してきたが、その店には、全身をゴージャスに着飾ったおばさんもいた。この人は、話自体は普通に通じる。ただ、とにかく自分が金持ちであることを全身でアピールしているような人だった。しかし考えてみると、本物の金持ちは私が働いていたコーヒー1杯200円の喫茶店には来ない気がするが。

そのおばさんは毎日やってきた。そのうち、なんとなく挨拶くらいはする関係になった。ある日、「ここのバイトは時給いくらなの」と聞かれた。私は素直に答えた。800円だった。おばさんはふうんと言い、小さな紙切れを渡してきた。

「もっと稼げるわよ、あとで電話しなさい」

あれは何だったのか。結局、電話をしなかった。そのへんが私の普通さである。絶対やばいじゃん、と思って無視した。その後もおばさんは普通に店に来たし、電話しなかったことに不満もないようだった。

もし電話をしていると、日常の中に唐突に暴力が侵入してくるという古谷実マンガ的な展開になっていたのかもしれない。あるいは、おばさんの性器を舐めてお金をもらう、みたいな展開になっていたのか。その場合いくらもらえたんだろう。やはり1000円だろうか。相場がわからない。

ネコネコ通信

この日記には更新がとまるとネコが増えるという法則があるんだが、案の定、この半年のあいだに杉松宅のネコは7匹まで増えていた。すでに私は家を出た身だが、たまにネコたちを見に行っているので状況は把握しているわけだ。

もともとの4匹にくわえて、知り合いから3匹の子ネコを預かっていた。それで7匹になっていた。預かることと飼うことはちがう、と杉松は言った。だからネコは増えていない、という理屈のようだった。しかし足元をみれば7匹が走り回っている。なんだか高度な記号操作によってズルをしてる感じだ。

これが預かっていた3匹のネコたち。

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いちおう名前を付けていた。黒い子ネコはネネとトト、白黒のネコは菊千代である。ちなみに右下の白ネコはセツシで、これは前からいる。セツシはそれまで最年少だったんだが、突然3匹も年下が増えたからだろう、笑ってしまうほどに先輩風を吹かせていた。この写真でも得意げである。子分を紹介しているつもりなのかもしれない。

はじめのうち、子ネコは小部屋に隔離して飼育していたんだが、セツシは毎日足しげく通い、いっしょに遊んでやっていた。いちおう書いておくと、大きなネコが小さなネコと遊んでやる姿というのは、破壊的にかわいいものである。

その後、子ネコたちも家のあちこちで活動するようになった。セツシは自慢げに連れて歩いていた。それでまた笑ってしまった。ここまで先輩風を吹かせる生きものをはじめて見た。セツシの吹かせた先輩風にほほをなでられた気がした。

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その後、ネネとトトは2匹セットでもらい手が決まった。なのでもう杉松の家にはいない。いまは市内某所の豪邸に住んでいるらしい。杉松がネコを渡すときに家を見てきたのだ。飼育環境を確認して飼い主を査定するという趣旨だったんだが、査定もくそもない、お釣りがくるほどの大豪邸だったという。

「上田の住んでた小部屋、あの家のトイレくらいしかなかったよ!」と杉松は言った。

「ていうかもう、この家自体、あの家のオマケみたいなもんだよ! たいへんだよ、ああいう家に住んでる人がいるんだよ!」

妙にうれしそうに、身振り手振りをまじえて語っていた。豪邸を身体で体験することは、問答無用でテンションを上げる。巨大なものはそれだけで人を興奮させるということか。

現在、ネネとトトは金持ちマダムのもとで元気に暮らしているようだ。美味しいものも食べていることだろう。杉松は「あたしも一緒にもらわれたかった」と言っていたが、これは少々無理のある考え。一人だけ二足歩行だし、人類だし。

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3匹目の菊千代だが、これは今も家にいる。杉松は飼い主を探しているようだが、はたして見つかるんだろうか。それに、他のネコたちとも完全に仲良くなっている。私は家を出た身だから、もう飼っちゃえばいいじゃんと気楽なことを言うが、正式な飼いネコは4匹で止めておきたいらしい。ネコたちの老後を考えると、4匹が限界とのこと。しかし「ネコたちの老後」というのも、なかなかすごい言葉ですね。

ということで、杉松の家には現在、5匹のネコがいる。初音、影千代、セツシ、ミケシ、菊千代である。ネネとトトはしばらく滞在して去り、唯一のヒト科だった上田はとうとういなくなった。こう整理してみると、妙に生き物の出入りする家ですね。ほぼほぼネコですが。