真顔日記

上田啓太のブログ

最近の仕事まとめ2018年春

最近の原稿仕事をまとめておきたい。定期的にこういうことをしたほうが絶対にいいからである。まとめをさぼるのはよくない。ということで、今年の一月から四月にかけてブログ以外に書いていたものをまとめます。よろしくお願いします。

GINZA

まず、GINZAの五月号にファッションに関するコラムを書いた。発売後、「なんであんなおしゃれな雑誌におまえの文章が載ってるんだ」と各方面から問い合わせがあったが、その理由をいちばん知りたいのは私なんですよね。ほんとなんで?

なお、「ファッションに関するコラムを書いた」とかごまかしてるが、「黄色のパンツに白のシャツを着ると配色がソフトクリームと同じになるので大変だ」みたいなことを書いただけだ。ほんといいのか。知的な服ってなんだろう、って書いてあるのに。

GINZA(ギンザ)2018年5月号[WHAT IS INTELLIGENCE 「知的な服」ってなんだろう]
 

マンガ再読

マンバ通信のマンガ再読連載をたくさん書いた。とくに反響が大きかったのは、島耕作の話と、孫悟空について。

それにしても、この連載をはじめてからドラゴンボールという作品のすごさをあらためて実感している。いろいろと次の原稿を用意しているんだが、ドラゴンボールにかんするものが異常に多い。この年齢になって気づいた。いちばん好きなマンガ、ドラゴンボールだ。小学生男子みたい。

自分のなかで、ドラゴンボールとaikoが同じところに入りつつある。それについて書こうとすると自動的に大量の文が出てくる、という意味において。

まったく共通点のない二つの気もするが、しいて言うならば、「変人のはずなのに平然とメジャーで活動している」というところだろうか。鳥山明にしろ、aikoにしろ、ものすごく変な人で、メジャーになる人間とは微妙にずれたところにいるんだが、持ち前の人なつっこさなのか何なのか、しれっとメジャーのド真ん中にいる。そういう存在に自分は弱い。

音楽コラム

音楽関係のコラムを2本書いた。aikoについてと、スピッツの草野マサムネについて。どちらも歌詞に関するものである(というかそれしか書けない)。

記事を読んだ女性のかたから「自分の気持ちが理解できました」という感想をもらって非常にうれしかったんだが、その反面、34歳の男が書いたもので理解しちゃっていいのか、と不安にもなった。草野マサムネの記事なんか、「女子は○○なのです」というふうに、やたらと「女子」を主語にして書いてるんだが、たんに自分のことを書いてるだけですからね。「なぜ私は草野マサムネの歌詞にときめくのか」だとあまりに意味がわからないので、女子を隠れみのにしてるだけ。女心は全然わかりません。私にわかるのは私の心だけです。

楽天それどこ

楽天それどこでは、2万円で部屋に色々なモノを買う企画をした。「殺風景な部屋」から、「やや殺風景な部屋」に変身できたと思う。そんな中途半端な変身でいいのかと思いますが。あと、役立つ情報がゼロなことに自分でも笑ってしまう。「カーテンは大事」とか書いている。それ、たいていの人類は知ってる。

ケイクスで新連載

ケイクスで「新しい人間観察」という連載がはじまった。有料のサイトだが(150円/週)、特定の記事が無料で公開されることもあるようす。しばらくは毎週更新される。初回のタイトルは「自意識のない美人に出会った」で、これはすでに公開されている。次は「鼻息でコミュニケーションする日本の男たち」という記事が公開される予定。こうして書いてみると、へんなタイトルの文章ですね。

noteで文を売っている

ちゃんと告知するのを忘れていたんだが、すこし前からnoteで昔の文章を売っている。「note」というのは説明がむずかしいが、文章を有料で売ることのできるサイトなのです。

なにを売っているのか。まずは真顔日記の初期のもの。ブログではすでに非公開にしているが、これを編集したものを売っている。あとは大学生の頃に書いていたウェブ日記を編集したものを販売中。どれもけっこう売れていて、これがうれしい。読んだ人にじかに金を出してもらえると、ものすごく励みになると分かった。いまさら気づくことかと思いますが。

note:日記アーカイブス

以上

以上です。次は夏の終わりにでもまとめます。新たに寄稿したものはブログ下部の「最近の仕事」で随時紹介しています。ツイッターとフェイスブックでも紹介しています。アカウントを持っている人は何も考えずに下の二つをフォローしてください。何も考える必要はありません。それではまた。

Twitter:@ueda_keita
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突然、ネコはチンピラの顔をする

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かわいいと思って油断していると、突如、チンピラの顔をする。それがネコという生き物である。肉食動物としての根っこが出ると言えばいいのか、透明感で売る女優がのぞかせる元ヤンとしての素顔と言えばいいのか。とにかくネコと暮らしていると、唐突にチンピラの顔をされて驚くことがある。

あるとき、初音が玄関で私のコンバースをいじくっていた。ひもがあるのが面白いんだろう。私のコンバースは定期的にネコたちに蹂躙される。コンバースをクッションにして寝ることもあれば、ひもを噛んでいることもある。私も慣れたものだから、好きにしなさいという態度で写真を撮っていた。

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その後、別のネコもやってきた。ヒモで遊ぶのはやめて、二匹でのんびりとしていた。牧歌的な光景がそこにはあった。私はそのまま写真を撮り続けていた。しかし次の瞬間、何のまえぶれもなくチンピラが登場した。

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これだ。これが唐突に出てくるチンピラである。何の伏線もない。

どのあたりにチンピラ感があるのか。黒目が小さくなる。口が開いて細かい歯が見える。顔が長くなるのも大きいんだろう。ヒョウやトラもネコ科なんだと思い出す。内に秘めたるチンピラの素顔。

とくに、この初音というネコは、普段は目もクリクリしており、飼い主が言うほど馬鹿なこともないが、かわいいネコなのである。他のネコたちとくらべても目がまるく、体型もギュムッと縮んだかんじ。それが半年に一度くらいの頻度で、チンピラとしての素顔をみせる。カナブンくらい余裕で食べまっせ、という顔になる。カメラがそれをおさめる。

ネコには、チンピラとしての側面を見せないようにしようという自意識がない。そのため、チンピラ化は常に唐突である。そして何事もなかったかのように、スムーズにふだんの顔にもどる。それがネコという生き物であり、そして飼い主というのは、そのギャップにいちいち興奮する生き物なんだろう。

その後、二匹はコンバースの上で遊びはじめた。テンションが上がったのか、最後はもみくちゃになっていた。こうなると、私のコンバースはただの闘技場である。あっさりと、バトルフィールドとして扱われてしまう。履き物なのに。

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こういうときはチンピラにならない。不思議だ。首筋に噛みつかれているのに、ぬいぐるみのような顔のまま。なんの感情も見てとれない。今こそ、チンピラになるべきじゃないかと思うが。「なに噛んどんじゃワレ」という顔をしろ。私はあの顔を知っている。

自称aikoのどうしようもなさ

ストロー(初回限定仕様盤)

あいかわらずaikoを聴いている。

というか、この書き出しはもはやこの日記において、「あいかわらず酸素を吸っている」くらいの意味にしかならない気もするが、あいかわらず聴いている。何度聴いても、自分のことを歌っているとしか思えない。私の中にはaikoがいる。

はじめのうち、自己の内側にaikoを感じることは特殊な体験のように思えるが、やがて慣れて気にならなくなる。すると自分がaikoであることはただの常識になる。一月の次に二月が来るように、私の中にはaikoがいる。だからこの日記でも当然のように、俺はaikoだ、俺はaikoだと繰り返してきた。

しかし、人に会うとだめだ。

先日、ブログを読んでいる知人に、「上田さんは自称aikoですもんね」と言われた。それでひさしぶりに客観的な立場から自分を見た。これはやばい。自称アイドルや自称クリエイターと比べても、自称aikoのやばさは飛び抜けている。だって自称aiko、絶対にaikoじゃないでしょ。自称アイドルと言われたとき、12%くらいは「ほんとにアイドルなのかも」と思いますよ。しかし自称aikoはガチの0%。絶対にaikoじゃない。

なにかの拍子に私が逮捕されたら、京都在住の自称aikoこと上田啓太容疑者(34)とかニュースに流れるのか。やばいですね。世間にいじり倒されて、グチャグチャにされる。絶対に悪いことはしないでおこう。

自称aikoが捕まるとしたら何なのかを考えていたんだが、テトラポットに登って飛び跳ねているところを取りおさえられる、とかだろうか。あまりに不審なので近隣の住民に通報される。そして警察で意味不明な供述をする。「夏の星座にぶらさがって上から花火を見下ろそうと思った。星座があんなに遠くにあるものだとは知らなかった」。

権威としてのaiko

これも人に指摘されて気づいたんだが、気心のしれた相手と会話していると、私はほとんど自動的にaikoの話をはさみこんでいる。「それはaikoが曲中で歌ってます」とか、「あなたのその感情はまさにaiko的なモチーフです」というふうに。相手はべつにaikoのファンでもなんでもないんだが、関係ない。無差別にaikoをまき散らしている。

恋愛にかんする議論になると、私はaikoの歌詞を引用したあとで、すべての議論が終了したような顔をするらしい。ほとんど聖書でも引用するかのように、aikoの歌詞を引用している。aikoのおことばが登場して議論が打ち切られる。しかし相手からすると、aikoの歌詞はべつに究極の真理でも何でもないため、その唐突な勝利宣言にあぜんとさせられるという。

西欧のほうの学者の本では、やたらと聖書やらプラトンやらが引用されることがあるが、どうも私は、それに似た効果をaikoの歌詞に期待しているんじゃないか。権威づけとしてのaiko。あるいはトランプにおけるジョーカー。手札にあるaikoを出せば、自動的に勝利できると思っているのか。

私は、aikoのよさがわからないと人に言われてもまったく動揺しない。もはや他人の言動で自分のなかのaikoが揺らぐことはない。それはいいんだが、aikoのよさがわからないと言われたとき、私が優しく励ましてくるのがむかつくという。「大丈夫、いつか分かるようになりますよ」と、天然の上から目線でなぐさめてくるらしい。

自分の中の絶対的な軸が定まってしまったため、他の人間をすべて「いまだaikoに至れない人々」と認識してしまう。これは要するに、街角でとつぜん祈らせろと言ってくる人のようなもので、非常にろくでもない状態だと思うんだが、改善がむずかしい。他人の発言を罪の告白のように受け取ってしまう。aikoを聴いていない人のことを想像するだけで、「大丈夫、そんなあなたの中にもaikoはおられます」と、優しい気持ちがこみあげてくる。一体、なにが大丈夫なんだか。おまえの頭のほうが大丈夫か。

ゴッホの絵を見るとクレープが食べたくなる

先日、杉松とふたりでゴッホ展に行った。京都国立近代美術館でやっていた。それで実感したが、ゴッホのなまの絵を見ることはものすごく疲れる。すさまじく疲労した。昼食をとってから絵を見たのに、美術館を出た後、二人とも甘いものが食べたくなっていた。

なぜこんなに疲労したのか、杉松と話し合った。杉松は「頭のおかしい人の話をずーっと聞いたあとみたいな気持ち」と言った。たしかに、と思った。ガーッと脳の処理能力を使わされた感覚。この世でなにが危険かって、伝達能力をぎりぎりのところでそなえた狂人ほど危険なものはない。

アントナン・アルトーに「ヴァン・ゴッホ」という文章がある。アルトーのこの文章も、脳の処理能力を要求してくるという意味で、ゴッホの絵に似ている。たまにそういう類の文章がある。なお、私の手元にあるのはちくま学芸文庫のものである。

河出文庫の『神の裁きと訣別するため』にも同じ文章が収録されていて、こちらのほうが入手は簡単そうだが、私はちくまの訳が好きである。河出のほうは、ちくまよりも読みやすく訳されている印象。ちくまの訳文はねじれており、読んでいて疲れるんだが、その疲労感が、ゴッホの絵を見ることの疲労感に似ていてよいと思う。

美術館を出た。ゴッホで疲労したわれわれは甘いものを食べることで同意した。目についたクレープ屋に入った。私はバナナ生クリームにするつもりだったが、おごってやると言われたので、バナナ生クリームチョコに変えた。杉松が「いちばん高いの!」と言った。私は、おごりだと知った途端にいちばん高いのを注文するような男である。

近くのベンチにすわって食べた。その後、「じゃそろそろ行こっか」と言った杉松のくちびるにチョコレートがべったり付いていたので爆笑してしまった。そんな状態でどこに行くつもりなのか。どこに行っても笑われるべったり具合。三十すぎの女にあるまじきワンパクな口元。

しかし、爆笑する私のくちびるには生クリームがべったり付いていたという。即座に指摘された。われわれは互いの顔を確認し、チョコレートと生クリームをきれいに拭き取ってから解散した。幼稚園児のつどい?

便器を見て興奮する

そういえば、ゴッホ展は美術館の三階でやっていたが、四階のコレクション・ギャラリーも同じチケットで見ることができた。こちらはゴッホとはとくに関係がないようだった。せっかくだし、という程度の薄いモチベーションで予備知識もなしに入ってみると、いきなりデュシャンの便器が置いてあってビックリした。

「デュシャンの便器」という言い方も我ながらひどいですけど、正式には、マルセル・デュシャンが1917年に発表した『泉』という作品ですね(ウィキペディアによれば)。

こんなに有名なものがあるとは思わなかったので、完全に不意を突かれた。感覚としては、ふらっと入った美術館にモナリザがぽーんと置かれていた感じ。われわれは「まさかあの便器が見れるとは」と興奮していた。便器を見て興奮する人間。コンセプチュアルですねえ。

帰宅後、本当にあれはデュシャンの便器だったのかと疑問に思い、調べてみた。どうやら展示されていたのは1964年の再制作版らしい。オリジナルはすでに紛失しているようだ。「オリジナルじゃなかったのか……」とがっかりしたが、そもそも、オリジナルからして既製の便器である。この状況における「がっかり」の根拠は何だ。

 

ヴァン・ゴッホ (ちくま学芸文庫)

ヴァン・ゴッホ (ちくま学芸文庫)

 

 

直方体の部屋をエアコンでキンキンに冷やしたい

去年の夏、新居の冷房を使った。非常に効きのよいものだった。といっても、べつに特別な冷房ではない。ワンルームに備え付けられたふつうの冷房である。むしろ部屋の形状の問題だろう。私は冷房が素直にきく空間に感動していた。

というのも、長く居候していた杉松の家は古い日本家屋であり、構造上、あまりエアコンが効かなかった。庭、縁側、居間、台所とゆるやかにつながっており、エアコンの冷気があちこちに散ってしまう。いまいち冷えた気がしない。

だからあの頃、私と杉松はすぐに「この家が直方体だったら……」と言っていた。直方体の部屋をエアコンでキンキンに冷やしたい。それがわれわれの切なる願いだった。

ちなみに、私が転がりこんだ当初、杉松の家にはエアコンさえなかった。扇風機だけでなんとかしていた。その扇風機も非常に古く、半分壊れているようなもので、プロペラの回転は異常に遅かった。「強」に設定して、ようやく「弱」ほどの回転を見せる。

ちなみに「弱」に設定すると、すこしだけプロペラが回転したあと、ゆっくりと停止していた。あれはひどかった。ことばの真の意味で「弱」だったとも言えるが、真の意味で弱い扇風機には何の価値もないことを知った。

その後、杉松はエアコンを購入した。「人間が二人になって家が暑くなった」と杉松は言った。人間の肉体というものがいかに熱を発しているかを淡々と述べられた。私は家に転がりこんだ身として恥じたものだった。恥じただけで電気代は払わなかったんだが。

杉松はエアコンの説明書を読み、だいたいの機能を把握した。初日の夜、「ねむリズムだよ!」と嬉しそうに言っていた。そういう名前の機能があるらしい。寝る時は「ねむリズム」に設定するとよいとのことだった。新しい言葉を与えられたときのわれわれの反応は二才児と同等である。その語感を気に入り、しばらく、ねむリズムという言葉を連呼していた。

以降、杉松は夜になるたびにリモコンをピッとやってねむリズムに設定し、「ねむリズムだ」と言っていた。その顔は非常に満足げだった。だが結局、ねむリズムの効果がどうだったのかは覚えていない。言葉のひびきの面白さだけを記憶している。メーカーとしてはどうなんだろう。ネーミングだけ気に入られても困るんじゃないのか。

その後、私はアパートで一人暮らしをはじめ、夏と冬を一度ずつこえた。アパートの部屋は見事な立方体である。引越し後しばらくはすさまじい密閉空間にいる気分だった。古い日本家屋からワンルームに引っ越すと、あまりのちがいにおどろいてしまう。完全な幾何学の世界。概念に住んでいる状態。だからこそ、室温をコントロールしやすいということなんだろう。もうすぐ、概念で暮らす二度目の夏がくる。