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真顔日記

三十六歳女性の家に住みついた男のブログ

人に道を教えると確実にモヤモヤする

上田の日常

近所を歩いていると道をたずねられる。京都だから観光客が多いのか、私が部屋着の延長のような地元民まるだしの格好をしているからなのか。

道をたずねられれば教える。当り前だが。

しかし教えた後、いつも微妙にモヤッとしたものが残る。なんだか釈然としない気持ちで、爽快感のないまま歩き出すことになる。

最近分かったんだが、これは要するに、道を教えた段階で自分の役割が終わってしまい、教えた人々が無事に目的地に辿りつけたかが永久に分からないからである。

たとえば、何々という神社はどこだとたずねられる。道を教える。ありがとうと言われて別れる。その後、相手が無事に辿りつけたかは分からない。私の説明はしっかりと分かりやすく成されていたのか、間違った道を教えていなかったか不安になる。とくに現在地から目的地までのルートが複雑な場合。

以前、夜中に散歩していたら、観光客らしき二人組のおばさんに話しかけられて、近くにコンビニはないかと聞かれたことがあった。すこし先にファミリーマートがあったから、そこまでの道を教えて別れた。そのファミリーマートはけっこう分かりにくいところにあった。二人のおばさんは暗闇に消えていった。

散歩を再開してから、教えたのと逆方向にはセブンイレブンがあることを思い出した。こちらは二つの大通りがまじわるところにあり、夜でも明るい。土地勘のない人間でも簡単に見つけられるだろう。コンビニを出たあとの行動もしやすいはずだ。絶対にあっちを教えたほうがよかった。しかし二人組のおばさんは暗闇に消えた。私がファミリーマートの場所を教えたばっかりに。

私はこういう状況が駄目である。この時点で、自分がおばさんをファミリーマートという冥界に送り込んだ死神であるように思えてくる。京都にはじめて来た二人組があんな真っ暗なところにぽつんとあるファミリーマートに辿りつけるはずがない。途中で野犬に食い殺されるのではないか。

片方のおばさんが道中で野犬に襲われて死に、もう片方は血まみれの姿でなんとかファミリーマートに辿りつくんだが、傷が深かったんだろう、店の前でばたりと倒れる。それに反応して自動ドアがさーっと開くが、皮肉なことにすでにおばさんは息絶えており、あとは血まみれの死体の前で、自動ドアが開閉を繰り返すだけ……。

むろん、京都はこんな荒れ果てた世界ではない(説明するまでもない)。しかし不安は常に付きまとう。道を聞かれるだけでそんな精神状態になるんだからどうしようもない。本当は道を教えたあとにメールだけほしい。「無事につけた」とだけでも知りたい。「元気で観光できた」と分かれば尚良い。しかしそれだけのために連絡先を交換するはずもない。何もかもが面倒だ。頭が破裂する。もう誰も私に道を聞くな。

プリッツのローストが砂糖まみれになっていた

上田の日常

江崎グリコ プリッツ ロースト 62g×10個

プリッツのローストを子供の頃から愛好していた。

しかし今日、久しぶりに買ってみたら砂糖でコーティングされていた。プリッツの棒の全身がまんべんなく砂糖だらけだった。箱には「シュガーコート」と得意気に書かれていた。本当にショックだった。もはや別の棒じゃないか。

なぜローストの名を残したまま砂糖などまぶしたのか。砂糖をまぶすならローストの名は外すべきだし、ローストの名を残すなら砂糖をまぶしてはいけない。二択、ここは絶対に二択だ。どちらかを切り捨てなくてはならない。砂糖をまぶしておいてローストの名を残しちゃいけない!

久々に再会した棒が砂糖まみれになっている悲しさ。あの頃のローストはもういない。私はそっけない味のローストが好きだった。塩まみれのサラダ味とも良いコンビだった。饒舌なサラダと寡黙なロースト。私はその両方を気分によって買い分けていた。そしてどちらかといえばローストを手に取ることが多かった。これが時代の流れというものか。しかしサラダはサラダのままじゃないか。どうしてローストだけが、お前だけが変わらなきゃいけなかった!

嘆く私のところに、サラダ味がやってくる。

「おまえは今頃ノコノコとやってきて何を言っているのか。ローストの売上が下がりはじめた時、おまえはトッポを食べていた。いよいよローストが砂糖まみれになることを決めた時、おまえはじゃがりこに夢中だった。なのに気まぐれなノスタルジーに襲われて数年ぶりに手にとって、それが砂糖まみれで泣いている。そんな調子のいい涙に説得力は皆無だ。おまえは買い続けるべきだった。ローストを買い支えるべきだった。おまえに砂糖まみれのローストを批判する資格はない」

私はプリッツサラダ味に説教されるかもしれない。

しかし、私は身体が塩まみれのやつに説教なんかされたくない。塩まみれで説教して説得力のある存在など一人もいない。塩まみれの上司、塩まみれの和尚、塩まみれの占い師、どれも等しく馬鹿である。雑誌にあふれる人生相談も身体が塩まみれのやつが答えていればだいなしだろう。塩まみれのリリー・フランキーに恋愛相談する馬鹿がどこにいる。しかもプリッツは棒だ。塩まみれの棒に説教されてたまるか!

「だが俺は塩まみれの棒であることを誇りに生きている。生き馬の目をぬく菓子業界を塩まみれで生き延びるというのが俺の覚悟だ。おまえから見れば単なる塩まみれの棒かもしれんが俺はそんな揶揄に動じることはない。この身体で厳しい競争を生き抜いてきた自負があるからだ。さまざまな棒が陳列棚で俺のとなりに並んできた。ハチミツを塗られた棒もいた。えびしおなんて名前の馬鹿もいた。みな脱落して消えていった。だから盟友ローストが砂糖まみれになることを決めた時、俺は静かにうなずいただけだった。そこには生き延びた俺たちにだけ理解できる無言の交流があったのだ」

サラダ味は説教を続けるかもしれない。

しかし私が思うのは「この棒しゃべりすぎだろ」ということだけである。

塩まみれの棒に半生を語られても困る。

私はローストが砂糖まみれになったことを嘆いたばかりに塩まみれの棒に説教された。というか正確には、塩まみれの棒に仮託した自分の別人格に説教された。妙なものに憑依するからこうなる。塩まみれの棒には水をぶっかけてやればよい。

ふやけろ。 

「女と寝る」という島耕作の一発芸

上田の考察

マンガを読んでいると、作者の意図しないところで笑ってしまうことがある。たとえば『課長島耕作』のシーンの飛びかた。これが私はツボである。

むかし定食屋で読んだだけだから細部は曖昧なんだが、島耕作が綺麗な女と知り合う。二人でバーに行き、しばらく話し込む。すると女がグラスを持ち上げて言う。

「残りのジャック・ダニエルは、もっと静かなところで飲みたくない?」

そして次のページではベッドに入っている。あの感じ。あれが笑ってしまう。完全にネタ振りとオチとして認識している。私はあのマンガをセックスというオチを楽しみに読んでいた。「そろそろ女と寝るぞ、女と寝るぞ、ホラ寝た!」という感じ。感覚としては吉本新喜劇。定番ギャグとしてのセックス。女と寝るというのは島耕作の一発芸なのだ。

コマとコマのすきまで女を口説く、それが島耕作という男である。世界には数多のプレイボーイがいるが、こんな妙な場所で口説くのはこいつくらいだろう。顕微鏡でコマとコマのすきまを観察すれば、島耕作が女を口説く姿が発見されるのだ。ミジンコみたいな島耕作をプレパラートにのせよう。ついでにミジンコみたいな女と、さらに小さなジャック・ダニエルも。

書いているうちに面白くなってきた。本当にこんなマンガだったか。記憶を捏造している気もする。しかし冒頭で挙げたジャック・ダニエルのくだりは確かにあったはずである。あれからしばらくジャック・ダニエルという単語だけで笑っていたから。

意図と関係なく笑ってしまった作品は他にもある。

『ベロニカは死ぬことにした』という真木よう子主演の映画があって、笑う映画ではないのに私は笑っていた。物語の終盤、真木よう子が愛する男に自慰を見せるシーンがある。たぶん作中では「性の開放」か何かを表現しているようなんだが、真木よう子が絶頂を迎えたあと、蛇口から水がバシャーッと出るカットが唐突に挟まるのである。

その後、シャワーの水がバーッと出るカットも挟まり、おだやかな湖のカットまで挟まる。真木よう子の自慰からの、蛇口で水ブワーッの、シャワーで水パシャーッの、湖で水面ユラァ……である。たぶん大真面目にやっているんだが私は爆笑していた。

これについては、『裸の銃を持つ男』というコメディ映画に似たものがあった。主人公が女と出会ってセックスするんだが、その絶頂においてスペースシャトルが発射されるカットが挟まるのである。こっちは完全にギャグでやっている。それを思い出した。

メタファーなんてのはよほど繊細にしないとギャグになるもので、私は『バガボンド』という漫画自体は好きだが、あれもたまに演出をやりすぎてギャグすれすれになっている。たとえば武蔵が柳生石舟斎に出会い、その器の大きさを実感して、「ああ、この人は山だ……」と言った瞬間、ほんとうに身もふたもなく山が描かれたコマが入ってきたりする。あれも笑ってしまう。「※イメージ映像です」と言いたくなる感じ。

しかしまあ、やはり島耕作である。「残りのジャック・ダニエルはもっと静かなところで飲みたくない?」である。そのうち読み返したい。ジャック・ダニエルを片手に。

耳の裏にうんこをつけたネコ

ネコのはなし

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三十六歳女性がネコとたわむれていた。

その声をなんとなく聞きながら本を読んでいたんだが、しばらくすると無視できない言葉が耳に飛び込んできた。「せっちゃん、耳の裏にうんこついてない?」とのことである。セツシは耳の裏にうんこがついているのか。最悪だ、最悪のネコじゃないか。

たしかにネコというのは人間とくらべると糞尿の処理が粗雑である。うんこの一部を身体にくっつけたまま、トイレから居間に戻ってくることがある。このあいだは影千代が尻毛の先でうんこをヒラヒラさせたまま、これが最新のファッションですという顔で歩いていた。

そこにきて今度はセツシが耳の裏にうんこをつけている。尻の近くならまだしも、なぜ耳の裏にうんこをつけてしまうのか。どんなアクロバティックなポーズで排便したらそんなことになるのか。そのままオリンピックに出場できそうな複雑なアクションの排便なのか。

男子アクロバット排便 決勝

セツシは耳の裏にうんこがついて減点、惜しくも優勝を逃す。

「動かないで! せっちゃん、うんこ取るから!」

三十六歳女性はセツシと格闘していた。私は本を読むふりをしながらも頭のなかではセツシ株の大暴落、耳の裏にうんこがついたネコという汚名を背負うことになったセツシの今後を考えていた。とにかく早急に取ってもらったほうがいい。抵抗してはいけない。だがその時、三十六歳が言った。

「あっ、気のせいだった」

これで私は読書をあきらめた。

「なんなんだもう、さっきから!」

「あはは、ほら、ただのゴミだったよ、うんこじゃなかったよ、ごめんね、せっちゃん!」

三十六歳女性は前歯まるだしの素敵な笑顔でセツシを撫でていた。そしてセツシのほうも、今まさに耳の裏うんこ疑惑をかけてきた女に撫でられながら気持ちよさそうに目を細めていた。細めている場合か。

「これ、ちっちゃくてうんこに見えたんだけど、ホコリだったのね、ただのホコリ!」

三十六歳女性は軽佻浮薄そのものの態度で指先のホコリを見せてきた。セツシはとなりでゴロゴロ言っていた。裁判にもならない。

ネコだから許されるが、こんなものは人間だったら大変である。「木下さん耳の裏にうんこついてませんか?」からの「勘違いでした」は絶対に許されない。うんこかと思ったらイヤリングでした、みたいな流れは絶縁宣言に等しいだろう。

木下さんにアクロバット排便疑惑をふっかけておいて、「ごめんね!」のひとことで済ませようとする。しかも木下さんは撫でられて目を細める。まったく無茶苦茶もいいところである。

「美人」は客観的な表現だと思っている

上田の考察

美人という言葉について。

ある女が美人かどうかは自分の判断では決められず、周囲の評価によって決められる。自分にとって、その顔が好きか嫌いかとは無関係に、その顔が美人かどうかは决まる。だから、「この社会においてこの人は美人と呼ばれる外見をしている」という意味合いで、「〇〇さんは美人だ」と言う。

「好き」は個人的な基準で、「美人」は客観的な基準である。「好きな顔」と「美人」は微妙にずれている。「そんなに美人ではないが好きな顔」は普通にあるわけだ。

女でも、「イケメン」という言葉を客観的なニュアンスで使っている人はいる。「〇〇君はイケメンだね」というとき、そこに好意は含まれていない感じ。すこし距離のある口調で言っている。

むろん、好意まるだしでイケメンという言葉を使う場合もあり、それは美人も同じである。「すげえ美人だよなあ!」と鼻息荒く言われることもある。その場合、「美人」と「好き」は分離していないだろう。あくまでも私の場合は、「美人」と「好き」にけっこう距離があるということである。

この距離に無自覚だから、妙なことも起こる。

フリーターだった頃、バイト先の休憩室で年下の女子と二人で話していた。名前は仮に七瀬さんとしておこう。きれいな子だった。

雑談の流れでテレビの話題になったとき、その子が「わたしは女芸人になりたい」と言い出した。テレビで女芸人がジャニーズのナントカ君とキスしていたからだという。私も女芸人になればキスができるかもしれない、ということだった。

しかし私は、女芸人はブサイクという外見を売りにしているからジャニーズとのキスが笑いになるんだし、顔がきれいじゃ成立しないだろうと思った。なので言った。

「いや無理でしょ、七瀬さん、すごい美人だから」

そしたら、会話の自然な流れが乱れ、明らかに変な空気になり、相手がモジモジしはじめ、しばしの沈黙のあと、

「も~なに言ってるんですか~! やめてくださいよ~!」

この時、相手の反応の意味がさっぱりわからなかった。事実を指摘しただけなのに、この女はどうしてモジモジしてんだろうと思っていた。

これなんか、美人という言葉の扱いがおかしくなってしまった例だろう。自分のなかで、「東京生まれ」とか、「身長160センチ」とか、「髪型はショート」のような、とくに議論の余地のないものとして「美人」という属性があり、主観の入りこむ余地はない。そして主観と無関係だからこそ、平気で本人に指摘してしまえる。

「わたし、関西弁を完璧にマスターしたいんですよ」

「無理でしょ、七瀬さん、東京生まれなんだから」

「も~なに言ってるんですか~! やめてくださいよ~!」

感覚としてはこんな感じだったわけである。まさにディスコミュニケーション。ポカーンとする。

ちなみに、私はしばらくしてから、自分が同僚をド直球に口説いた形になったことにようやく気づいて、時間差でモジモジしていた。俺、ものすごいこと言ってんじゃん、と思った。あたりさわりのない雑談かと思ったら、何の脈絡もなしに唐突に口説きはじめている。そりゃ会話の流れも乱れる。

しかも私は無自覚だから、相手のほうをまっすぐに見つめたまま、何の照れもなく口にしていた。そのまま手を握りはじめてもおかしくない勢いだった。イタリア人である。塩顔のイタリア人。その塩はきっとシチリアの塩。