真顔日記

上田啓太のブログ

カフェと狂人

スタバで文章を書いていたら、隣の席に男がやってきた。「ペッペラペッペラピッピッピ♪」と歌いながら歩いてくる。たぶんオリジナルソングだろう。それで私の身体に緊張が走った。頭のおかしな人間だと思ったからである。

カフェにおいて、隣に頭のおかしい人間が座るのは緊張するものだ。実害はないにしても、ペッペラピッピの歌を隣でえんえん歌われた場合、集中できたものではない。

この男については、そのあと友人らしき男がやってきて普通に会話をはじめたので、頭がおかしいわけではなく、ゴキゲンな時に少々おかしな歌を歌ってしまうだけだと分かった。ややうるさいくらいで、それならばイヤホンをして音楽を聴けばいい。

カフェに通うようになると気づくことだが、街には一定数、狂気の世界に行った人々がおり、カフェの常連になっている。この街をうろつくようになってからの七年で、私は三人の狂人を見た。

一人は中年の男で、だぶだぶのシャツを着ており、いつも独り言をぶつぶつと言っている。丸テーブルの座席に一人で座り、向かいの席の人間と話し込んでいることもある(誰もいないのに)。

もう一人も同じく中年の男で、こちらは太っており、めがねをかけている。レンズが汚れて色眼鏡のようになっている。この男も一人でぶつぶつとつぶやいている。この男には店内を定期的に移動する癖がある。つまり、ひとつの席から別の席へ移動し、しばらくすると、また別の席へと移動するのである。もちろんカフェでは席の移動は自由だろうし、私もたまにやるが、この男はそこに何ら法則性が見えない。ただずっと移動し続けている。

最後は、おばさんなのか、おばあさんなのか、年齢不詳の女で、常にベビーカーを押しながら街を歩いている。しかし、そこに赤ん坊は乗っておらず、かわりに赤ん坊の人形が二体乗っている。これはよく通行人に二度見されている。私はもう見慣れているので二度見はしない。

昔、カフェでバイトしていたことがあったが、そのときも一人、常連に頭のおかしいおばさんがいた。その人は、人間に笑顔を向けられると、自分を馬鹿にして笑ったと解釈するようだった。最初、いわゆる営業スマイルでニコッと笑ったら「何がおかしいのよ!」と怒鳴られ、くしゃくしゃのレシートを投げつけられた。以降、その人を接客するときは笑ってはいけないことになった。

別の喫茶店で働いていた時も、常連に情緒不安定なおばさんがいた。この人は、機嫌のいいときは「あんたたちは朝から大変だから」と言って、代金とは別に小銭をにぎらせてくる。しかし機嫌の悪いときは、普通にコーヒーを出しても「なんなんだこれはッ!」と怒鳴られていた。「コーヒーです」と言いたくなるが、申し訳ありませんと言って、新たにいれなおしていた。

このおばさんが、店内で他の常連のおっさんに胸を揉ませて1000円受け取っているのを見たことがある。今思うとめちゃめちゃな店だった。変なおっさんとおばはんが大量にいる街だったから、私も麻痺していたのかもしれない。「1000円かあ」と、値段のほうを気にしていた(相場がわからなかったので)。

どんどん思い出してきたが、その店には、全身をゴージャスに着飾ったおばさんもいた。この人は、話自体は普通に通じる。ただ、とにかく自分が金持ちであることを全身でアピールしているような人だった。しかし考えてみると、本物の金持ちは私が働いていたコーヒー1杯200円の喫茶店には来ない気がするが。

そのおばさんは毎日やってきた。そのうち、なんとなく挨拶くらいはする関係になった。ある日、「ここのバイトは時給いくらなの」と聞かれた。私は素直に答えた。800円だった。おばさんはふうんと言い、小さな紙切れを渡してきた。

「もっと稼げるわよ、あとで電話しなさい」

あれは何だったのか。結局、電話をしなかった。そのへんが私の普通さである。絶対やばいじゃん、と思って無視した。その後もおばさんは普通に店に来たし、電話しなかったことに不満もないようだった。

もし電話をしていると、日常の中に唐突に暴力が侵入してくるという古谷実マンガ的な展開になっていたのかもしれない。あるいは、おばさんの女性器を舐めてお金をもらう、みたいな展開になっていたのか。その場合いくらもらえたんだろう。やっぱり1000円かな(相場がわからない)。

ネコネコ通信

この日記には更新がとまるとネコが増えるという法則があるんだが、案の定、この半年のあいだに杉松宅のネコは7匹まで増えていた。すでに私は家を出た身だが、たまにネコたちを見に行っているので状況は把握しているわけだ。

もともとの4匹にくわえて、知り合いから3匹の子ネコを預かっていた。それで7匹になっていた。預かることと飼うことはちがう、と杉松は言った。だからネコは増えていない、という理屈のようだった。しかし足元をみれば7匹が走り回っている。なんだか高度な記号操作によってズルをしてる感じだ。

これが預かっていた3匹のネコたち。

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いちおう名前を付けていた。黒い子ネコはネネとトト、白黒のネコは菊千代である。ちなみに右下の白ネコはセツシで、これは前からいる。セツシはそれまで最年少だったんだが、突然3匹も年下が増えたからだろう、笑ってしまうほどに先輩風を吹かせていた。この写真でも得意げである。子分を紹介しているつもりなのかもしれない。

はじめのうち、子ネコは小部屋に隔離して飼育していたんだが、セツシは毎日足しげく通い、いっしょに遊んでやっていた。いちおう書いておくと、大きなネコが小さなネコと遊んでやる姿というのは、破壊的にかわいいものである。

その後、子ネコたちも家のあちこちで活動するようになった。セツシは自慢げに連れて歩いていた。それでまた笑ってしまった。ここまで先輩風を吹かせる生きものをはじめて見た。セツシの吹かせた先輩風にほほをなでられた気がした。

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その後、ネネとトトは2匹セットでもらい手が決まった。なのでもう杉松の家にはいない。いまは市内某所の豪邸に住んでいるらしい。杉松がネコを渡すために家を見に行ったのである。飼育環境を確認して飼い主を査定するという趣旨だったんだが、査定もくそもない、お釣りがくるほどの大豪邸だったという。

「上田の住んでた小部屋、あの家のトイレくらいしかなかったよ!」と杉松は言った。

「ていうかもう、この家自体、あの家のオマケみたいなもんだよ! たいへんだよ、ああいう家に住んでる人がいるんだよ!」

妙にうれしそうに、身振り手振りをまじえて語っていた。たしかに、豪邸を身体で体験することは問答無用でテンションを上げる。巨大なものはそれだけで人を興奮させるということか。

現在、ネネとトトは金持ちマダムのもとで元気に暮らしているようだ。たぶん美味しいものも食べていることだろう。杉松は「あたしも一緒にもらわれたかった!」と言っていたが、これは少々無理のある考え。一人だけ二足歩行だし、人類だし。

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そして3匹目の菊千代だが、これは今も家にいる。杉松はまだ飼い主を探しているようだが、はたして見つかるんだろうか。それに、他のネコたちとも完全に仲良くなっている。

私は家を出た身分だから、もう飼っちゃえばいいじゃんと気楽なことを言うが、正式な飼いネコは4匹で止めておきたいらしい。ネコたちの老後を考えると、4匹が限界とのこと。しかし「ネコたちの老後」というのも、なかなかすごい言葉ですね。

ということで、杉松の家には現在、5匹のネコがいる。初音、影千代、セツシ、ミケシ、菊千代である。ネネとトトはしばらく滞在して去り、唯一のヒト科だった上田もとうとういなくなった。整理してみると、みょうに生き物の出入りする家ですね。ほぼほぼネコですが。

aikoを聴きすぎると人はどうなるのか?

まとめ?(通常盤)

去年はaikoを聴き続けた一年だった。今年も聴き続けることになるのだろう。

日常的にaikoを聴いていると、世界の見え方は変わりはじめる。aikoの歌詞世界をもとにして世の中の事象を眺めるようになる。

さっきも地下鉄のホームでカップルが見つめあっているのを見て、「いやいやaikoじゃないんだから」と思った。自分のほうがおかしいのは分かっている。aikoじゃないんだからも何も、実際にあれはaikoじゃない。aikoだと認識するためのハードルが下がりすぎている。

先日、aiboに関するネットニュースを見て、反射的にaikoと読み間違えた。同じように間違えた人はけっこういるようだった。なので私のような人間はそりゃ間違える。むしろ間違えないほうがおかしい。間違えたことを誇りにすら思う。aiboとaikoを簡単に見分けられるような男にはなりたくない。そのときはヘッドホンを置いてaikoを聴くことから引退する。

ただ数日後、またニュースの見出しをざーっと見ていたとき、今度はauの二文字をaikoと見間違えて、これは自分でもどうかと思った。「a」さえありゃいいのか。さすがに誇りにも思えない。たんにボケてきてんじゃないのか。認知が心配になる。将来、なんでもaikoに見えるじじいとして死ぬ可能性が出てきた。看護婦さんに「あんたaikoかえ?」とか言ってしまう。

街を歩いている時、音楽プレイヤーも何もないのに、頭のなかをaikoの曲がずっと流れている。昨日は信号待ちをしている最中、『自転車』という曲がずーっと流れており、一人で感極まっていた。なんだか、ひとつの境地に達した感はある。剣を極めて剣を捨てることに似てきた。もはやイヤホンは不要、aikoは常に心に流れているということか。

あと、このあいだ夢にaikoが出てきて、二人でひたすら恋愛について議論していたんだが、これが一番やばいでしょ。体感として二時間ほどあった。居酒屋のようなところでひたすらaikoと恋愛論を戦わせていた。かなり白熱していた。大変だった。

だいたい、aikoと議論したとか言ってるが、夢に出てくるaikoというのはaikoの姿をとった私ですからね。自分の無意識がaikoとしてあらわれている。見かけは自分とaikoだが実際はたんなる自分と自分なわけで、「そうは言いますけどねaikoさん!」とかハイボール片手に興奮ぎみで言っていたが、そのaikoさんはおまえだ。

aikoを聴き続けることは自分の心の中にaikoを作り出すことで、そうして生まれたaikoをメディア等に登場する実際のaikoに投影することでもあるのだが、もちろん実際のaikoは頭の中のaikoとはズレている。そして面白いのは、このモチーフ自体がまさにaiko的だということだろう。こうしてaikoを聴くという行為自体がaiko的世界に吸収され、円環は閉じられる。

しかしまあ、とりあえず夢のなかでの議論は完全な一人相撲だったと思う。あれはひどかった。あそこまでの一人相撲は珍しかった。恥ずかしくなるほどの一人相撲。あ、「ひとりずもう」って書くとaikoの曲にありそう。

プリクラで美化される顔面について

いつのまにか、写真は美化されて当然になっている。あれはなんなんだろう。プリクラにしろ、スマホのカメラアプリにしろ、人間の顔面をみごとに美化してくれる。そして人々は、美化された画像を堂々と公開している。そこに後ろめたさもなさそうだ。

私は写真を撮られることが好きではない。長く同居していた杉松もそうだった。そんな二人で暮らしていると、写真を撮る機会は一切おとずれない。われわれを置き去りにして時代は美化のテクノロジーを発展させていった。

ネットで人間の美化された顔面を見るたびに、われわれは話し合っていた。これは何なのか。いったい何が起きているのか。日常的にこういうことをしている人間のアイデンティティはどうなっているのか。画像と実物のギャップで、自己同一性が崩壊したりしないのか!

だがある時、二人で二条のシネコンに行った。映画を観たあと、エスカレーターを降りるとゲームセンターがあった。プリクラコーナーと書いてある。われわれは目を合わせ、二人で乗り込んだ。いまこそ美化の実際を知るときだと考えたのである。

まず、いざボックスに入るとはしゃぐ。キャッキャする。硬貨を半分ずつ投入する。撮影がはじまる。次々とシャッターを切られる。しばらく待つとプリクラが落ちてきた。そこに映った自分たちの顔を見た。きっちりと美化されていた。向こうが「なるほど」と言った。私も「なるほど」と言った。

「なるほどなあ」
「なるほどだね」
「完全になるほどだよ」
「本当になるほどだ」

われわれは「まんざらでもない」の見本みたいな態度になっていた。撮影前はアイデンティティが、自己同一性がと言っていたのに、撮影後は二人とも「なるほど」しか言ってない。実際に美化された自分の顔面を見てしまうと、小理屈など吹き飛ぶのだ。

美化とは具体的になにか。肌に強く光が当たっている。細かいしわはすべて存在しないことになっている。唇は赤子のような桃色になっている。目も大きく加工されている。感覚としては十年ほど若返っている。大学生の自分がいると思った。

これは要するに、機械にお世辞を言われているようなものなんだろうが、唐突にオバチャン口調を使わせてもらうと、アラお世辞でも嬉しいわ、と思った。アタシこんなに目おっきくないわよぉ、とも。

われわれは帰ることにした。市バスに揺られながら、プリクラを見てはカバンに戻し、しばらくしてまた取り出すことを繰り返した。プリクラのおかわりが止まらない。片付けてもすぐに見てしまう。やがて最寄りのバス停に到着した。われわれはまんざらでもない顔のまま下車した。まんざらでもない顔の大人、運賃230円。

ハトの配色は奇をてらいすぎ

去年の夏、河川敷に座って、鴨川の流れをながめていた。川というのは見飽きない。作為がないからである。周囲にはハトがたくさんいた。まじまじとハトを見た。ハトもまた見飽きない。やはり作為がないからである。

と、言いたいところだが、ハトを見て思ったのは、首まわりの配色が奇をてらいすぎだということだった。全身は地味な灰色なのに、首のあたりだけ、蛍光のパープルとグリーンがざっくりと塗りたくられている。これはかなり大胆な色使いだろう。企画会議なら非常に揉めそうなもの。けっこう長いこと見ていたが、いっこうに納得がいかなかった。

ハトというのは日常的な鳥だし、そこらの公園に行けば一山いくらでポッポポッポやっているから、ついつい普通のものだと思ってしまうが、あらためて観察すると、こんな妙な鳥はない。そもそも、この歩き方はなんなのか。一歩進むごとに頭を前後に動かしている。

どんなお調子者も五分で恥ずかしくなりそうな、徹底的にひょうきんな動きである。すこしでも自意識があればやれたものじゃない。それを種族全体でやっているんだから見上げたものだ。遺伝子レベルで滑稽な鳥。親から子、子から孫へと滑稽を受け継いでいる。そりゃ平和の象徴と言われるわけだ。平和というのは、滑稽の長期的持続のことなのだから。

兵士の行進においてハトの首の動きを義務づければ、戦争など馬鹿馬鹿しくてやってられたものではない。我が国の兵士がハトのような首の動きで前進すれば、敵国の兵士もハトのような首の動きで前進する。どちらの兵士も耳まで真っ赤である。こんな状態じゃ、目もまともに合わせられない。「もう戦争やめましょう」となる。

ハトの眼というのもまた奇妙なものだ。外的な力で無理やりに見開かれたような眼をしている。まぶたに針金のフックをかけて、強制的に眼を開かせるとハトの眼になるんじゃないか。『時計じかけのオレンジ』の後半で、主人公があんな眼をさせられていた。

こう考えると、ハトは眼も動きも首まわりの色づかいも、すべてがおかしい。幻覚のような見た目をしている。あれは日常の鳥なんかじゃなく、ドラッグによる変性意識状態ではじめて目にするべき鳥じゃないのか。「あ、やばい鳥見えた」と言って頭をぶんぶん振るほうが、正解な気がする。

今後、ハトが見える人間は全員ラリッていると思って生きることにした。人類皆狂気。