真顔日記

上田啓太のブログ

かわいいは作れるけど作れない

去年の秋、近所の並木道を歩いていた。すると木の葉が落ちてきた。しかし私は気づかずに、しばらく頭に木の葉をのせたまま歩いてしまった。

その結果、私は化け忘れたきつねみたいになっていたんだが、あのときの自分、異常にかわいかったんじゃないか。三十すぎた男の言うことじゃないが、頭に木の葉をのせたまま歩いちゃう俺、超かわいいと思う。

もしも女の子の頭に木の葉が落ちてくる瞬間を目撃したら、それだけで好きになってしまいそうだ。たとえば対面でカフェテラスに座っていて、向こうはうれしそうに何かを話していて、その頭にひらりと木の葉が落ちてくる。その一瞬だけで恋に落ちる自信がある。

その後、木の葉に気づいた女の子が、照れながら自分と視線を合わせたりすれば最高だ。私は空を見上げて、太陽に「ありがとうッ!」と言う。なんとなく、いちばん巨大なものに感謝したいので。

大学生の頃、彼女が部屋に泊まりにきた。真夏の夜だった。私たちは二人で床に寝そべり、彼女の持ってきたミッキーマウスのジグソーパズルを作っていた。われわれはひさしぶりのパズルに夢中になり、黙々と作りつづけた。

集中して二時間ほどが過ぎた。ふと横を見ると、彼女はパズルを作る姿勢のまま眠っていた。そして二の腕にパズルのピースが一枚貼りついていた。その瞬間、自分の中にある「好き」の質が変わる音がきこえた。二の腕にパズルのピースを貼りつけたままスッピンでねむる女が、とてつもなくかわいく見えた。

ぐうぜん木の葉が落ちてきたり、パズルのピースが貼りついていたとき、胸がときめく。かわいい、と感じる。しかし一方で、世の中には「かわいいは作れる」という言葉がある。このときに言われる「かわいい」と、ぐうぜん落ちてきた木の葉を見て感じる「かわいい」は何が違うのか?

一般性と特別性

「かわいいは作れる」という言葉を、私はうそだとは思わない。たしかに、かわいいは作れる。それは化粧や服装や表情の技術である。もちろん「かっこいいは作れる」と言い換えてもいい。かわいさにしろ、かっこよさにしろ、そこにはパターンがあり、自覚的な努力によって作り出せる。これは単純な事実である。

問題は、それがどこまでいっても「一般性」をこえないことにある。一般性はそもそものはじめから「みんな」で共有するために用意されている。それは個人的な関係のためには用意されていない。

一般性を極めていったときに生まれるのは、「誰にも文句の付けようのない魅力」であり、「大勢の人間にちやほやされること」であり、そのとき人は大量の好意的な視線にさらされながら、深い孤独に沈む。そこには「特別な関係」が何もないからである。そのことを知らなければ、長く苦しい努力のはてに絶叫することになる。

「自分がほしかったのは、こんなものじゃない!」

一般性と特別性のちがいを見失ったときに悲劇は生まれる。特別な誰かがほしくて、ただ一人の特別な誰かに認めてほしくて、一般的な価値観をもとに自分を磨きつづける。それは外見を磨くことかもしれない。年収や肩書にこだわることかもしれない。だがその先に「特別な関係」など待っていないのだ。

この世には二種類の「好き」があると言ってもいい。一般性の先に生まれる「好き」が「誰からも好かれるあなたが好き」だとするならば、特別な関係を生み出すのは「私だけが知っているあなたの好きなところ」だろう。

aikoへと向かう強い流れを感じる。激しい渦が文章を飲み込もうとしており、その渦の中心には常にaikoがいるのだ。一つ目の段落をまたいだ時点ですでに私はaikoのことを考えていた。抵抗することはできない。飲み込まれるしかない。私はaikoの話をしなければならない。

あたしだけが知っている
あなたの特別なとこ
心の隅において 時々開けるの

aiko『リズム』

aikoはいかにして特別性を歌ったか?

aikoという歌手は、デビューから一貫して「特別性」を歌い続けてきた人である。初期の代表曲である『カブトムシ』では、それは以下のような歌詞に表現されている。

息を止めて見つめる先には
長いまつげが揺れてる

aikoは本当にひんぱんに「あなた」を見つめるのだが、その時、見つめられる「あなた」が非常にささやかな細部としてあらわれるところに特徴がある。ここでは「揺れる長いまつげ」である。

なぜ、まつげが揺れていることが分かるのか。aikoが「あなた」の横顔を見つめているからである。「あなた」自身、自分のまつげが揺れていることに気づいていないのだ。その瞬間をaikoは息を止めて見つめる。これが、aikoの「好き」が生まれる現場である。aikoが恋に落ちるのは「あなた」が見せる無防備な一瞬なのだ。

2006年発表の『シーソーの海』では、この視線はさらなる進化を遂げている。

あなたの鼻先にとまる真夏の汗に恋をする

もはや「あなた」の身体の部位である必要すらなく、ただ鼻先にとまったというだけで真夏の汗すら恋の対象となる。これがaiko的視線のひとつの極みであり、aiko的世界の完成である。では、この視線が生んだ恋が成就したとき、愛し合う二人をaikoはどのように描写するのか。それは『ロージー』の歌詞を見ればわかる。

あなたとあたしは恋人なのよ
その八重歯も この親指も
全部二人のものだってこと

aikoが二人のものだとするのは、あなたの八重歯であり、自分の親指である。社会的に価値を認められていないささやかなものに、aikoは二人だけの価値を見出す。それがaikoの歌い続ける「特別な関係」である。

しかし、やがて特別な関係にも終わりの時がくるだろう。この残酷な認識もまたaiko的なものである。「あなた」は「あたし」のもとを去っていく。「あなた」は思い出のなかの存在となってしまう。『えりあし』という曲でaikoが歌うのは、恋人が記憶となった後のことである。そのとき、記憶のなかの「あなた」を、aikoはどのように描写するのか。

一度たりとも忘れた事はない
少しのびた襟足を
あなたのヘタな笑顔を

美容院で襟足をきれいに整えることはできる。魅力的な笑顔を身に付けるトレーニングさえある時代だ。しかしaikoの記憶に焼き付いているのは「少しのびた襟足」であり、「あなたのヘタな笑顔」なのである。aikoにとって「あなた」が他の誰とも替えがたいものになるのは、絶対に忘れられないものになるのは、特別な視線によって「あなた」を認識し、記憶するからである。

やがてaikoは別れた「あなた」と再会することもあるだろう。そのときaikoはどこに昔の面影を見出すのだろうか? そんなことは『気付かれないように』の歌詞を見れば一発で分かる。

今の彼女すごく好きだよと
照れて髪をさわる
昔のあなたを見た

照れて髪をさわる仕草に、aikoは「昔のあなた」を見つける。片想いのときも、両思いのときも、記憶となったときも、やがて再会したときも、aikoはつねに特別な視線によって「あなた」を見つめている。その先にあるのは揺れる長いまつげであり、鼻先にとまる真夏の汗であり、八重歯であり、親指であり、少しのびた襟足であり、ヘタな笑顔であり、照れて髪をさわる仕草である。

これらは果たして「作れる」か?

問うまでもない。aikoの視線の先にあるのは常に「作れないもの」なのだ。作れないものだから「あなた」は固有性を獲得する。特別なものになる。自分にとってたいせつな存在になる。これがaikoの歌い続ける「恋愛」である。これがaiko的世界における「恋愛」の定義である。だからこそ私は、aikoという思想のひとつの受肉としての私は、断固として言わなければならない。かわいいは作れるが、作れないのだと。

 

なぜ、くしゃみのあとに言葉を足すのか?

くしゃみというのは、わりと細かく制御できる。あれは肉体の勝手な現象にみえて、意外とそうでない。くしゃみの予感から実際の発動までの数秒のあいだに制御は可能であり、意識的にせよ無意識にせよ、人はくしゃみをコントロールしている。

以前、私は、「へっくち!」とかわいく言えるのか試してみたことがあるんだが、普通に言えた。同時に、二度と言わないでおこうと決めた。成人男性の口から出るにはかわいすぎたからである。自分で自分のことが少し嫌いになった。くしゃみの仕方ひとつとっても、自分らしさは打撃を受けるということなんだろう。

おっさんは、くしゃみの後にチクショーと付ける。そんな話がある。「ハックション、チクショー!」というやつだ。実際に見たことはない。しかし自分の経験から、それが簡単なことだと予想できる。

ただ、私はくしゃみの後に何も付けない。その必要性を見出せないからである。なぜ、わざわざ言葉を付けるのか? 一種のアクセサリー感覚か? おっさんなりの自分らしさの演出か?

このあいだ、カフェにいたとき、近くのおっさんが豪快にくしゃみをした。そこは吹き抜けになっていて、天井が高かったため、しばらく空間にくしゃみの残響があった。

ハーーック、ショイッ!(ショイッ…ショイッ…ショイッ……)

すこしずつ小さくなっていくショイ。くしゃみにもエコーはかかるのか。そりゃそうか。あれはおしゃれだった。あれを自覚的に演出していたならば、かなりのおっさんだ。自分らしさの演出として、くしゃみにエコーをかける。チクショーと叫ぶよりも、ずっとすごい。尊敬してしまう。しかし天然だろう。

そういえば、長く同居していた杉松も、くしゃみの後に言葉を足すタイプの人間だった。彼女の名誉のために言っておくならば、杉松はおっさんではないんだが。

杉松の場合、「へっくしょい!」と言ったあと、「ヒシャア!」と言っていた。若い頃は「フスゥ!」だったらしい。「フスゥの時代は終わったんだよ」と言っていたが、私はそんなのが一時代を築いていたことすら知らん。

なぜくしゃみの後に言葉を付けるのかと聞いてみたが、杉松の返答は曖昧なものだった。考えたこともなかった、という顔である。モゴモゴしていた。ひざかっくんされるような問いに出会ったとき、人はこのような口の動きをするものだ。

しばらく頭をひねったあと、杉松は言った。

「合いの手かなあ?」

疑問形で答えを出していた。自分のくしゃみに自分で合いの手をいれるのか。一体どういうことだ。ハイ、ヨイショッ! ハイハイ、ヨイショッ! みたいなことか? もちつきか? もちつきとくしゃみの区別がついていないのか? ますます分からなくなってくる。それで興奮するのか?

「知らないよ! とにかく、おさまりが悪いんだよ!」

結局、よくわからないようだった。習慣だからやっているにすぎないのだ。フスゥの時代を経て、ヒシャアに辿りついたほどの女だというのに、無自覚なのである。謎は謎のままにしておけということだろうか。余談だが、杉松はくしゃみともちつきの区別はついているらしい(いちおう確認しておいた)。

アインシュタインと靴下の穴

最近、服装をちゃんとしている。身だしなみに気をつかっている。もっとも、私の「ちゃんとする」の基準はとても低く、「穴のあいた靴下をはかない」とか、そういうレベルではあるんだが。

杉松の家に長く居候したことが役に立った。だめになった靴下やパンツを捨てることを学んだ。「消耗品」という言葉をしつこく言われた。衣類は駄目になるものなのだと、定期的に買い替えるべきなのだと叩きこまれた。

靴下やパンツには穴があく。スウェットには毛玉がつく。Tシャツの襟はだるだるになる。どの衣類も時がたてば色あせる。諸行無常! そうしたことを学習していった。

もっとも、以前から色々な人に似たようなことを指摘されていた。しかし改善しなかった。耳に入っても素通りしていた。杉松に言われ続けてようやく変化が起きた。なぜあんなに変わらなかったのか、今になって思うと、当時の私がアインシュタインのことを考えていたからじゃないのか。

ちょっと文の流れが唐突すぎるが、要するに、「アインシュタインとか、たぶん靴下に穴あいてただろ」と思っていたのである。「アインシュタインは絶対セーターが毛玉だらけだったはず」というふうに。だから自分も服装に無頓着でいいのだと、アインシュタインを盾にして考えていた気がする。我が軍にはアインシュタインがいるのだ、と。

特定の物事に異常に集中していると、靴下の穴やセーターの毛玉に無頓着になる。自分はそのような人間でありたい。そんな気持ちが隠れていたんじゃないか。だから人に靴下の穴を指摘されたとき、ひそかに喜んでいたんじゃないのか。すくなくとも、それを恥とは感じていなかった。だから平然としていた。

「めんどくさい」という時、その言葉のかげに、ひっそりと自分のこだわりが隠れていることはあるものだ。私は靴下に穴があいていることにこだわっていた。あれは怠惰であると同時に、「天才科学者のコスプレ」でもあったんだろう。そもそも、アインシュタインは靴下に穴があいていたことで歴史に残ったわけではないんだが、関係なかったのか。

「リップクリームとか塗らないわりに、くちびるカサついてないんですね」

先日、友だちにそんなことを言われた。しかしその日の朝、私は普通にリップクリームを塗っていた。それくらい私だってやる。乾燥は不快だからである。勝手に勘違いされている。そのことを教えると「上田さんでもリップクリーム塗ることあるんですか!?」とおどろかれた。

以前、鏡をみながら鼻毛を切っていただけで、「色気づいちゃって」と言われたこともある。そんなとき私が繰り出す定番のツッコミがあった。先日も即座に言った。

「いやいやいや、俺を何だと思ってるんだよ!」

しかし自覚した。このツッコミの裏側で、私はまったく別のことを思っていた。

「もしかして僕のこと、天才科学者だと思ってるんですか!?」

心の副音声はそう言っていた。はじめて聞こえた。はじめて心の副音声にチャンネルが合ったのだ。ずっと流れていた。この副音声はずっと流れ続けていた。私が知らないだけだった。チャンネルを合わせればいつでも聞こえた。

だから、いつも少しテンションが上がっていたのか。「俺を何だと思ってるんだよ!」と言う瞬間、血行がよくなっていた。グッと身を乗り出していた。小鼻がふくらんでいた。その理由が判明した。喜んでいたのだ。浮かれていたのだ。自己愛を刺激されていたのだ。またひとつ天才科学者に近づいてしまったと、相手の発言にウキウキしていたのだ。しかし自分でも気づいていなかった。副音声の存在を知らなかった。小鼻のふくらみとしてだけ表現されていた。心の副音声は、小鼻をとおして主音声とつながっている。

ネコと仲良くするさまざまな方法

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月に一度、杉松の家に行っている。そして5匹のネコたちと再会する。ネコは私のことを完全には忘れていない。しかし住んでいた時の態度とも微妙にちがう。少しだけよそよそしくなっている。その態度にショックを受ける。

何度か帰るうちに分かってきた。ネコは私を「○○してくれる人」として認識している。だから久々に登場したときは反応がうすい。しかし住んでいた当時にしていたことを試すと、一気に思い出してくれる。これが、たまにしか会わないネコと関係を維持するためのテクニックなのか。

具体的な方法がネコごとにちがうのも面白い。セツシと菊千代という二匹のネコは棒をふって遊ぶと思い出してくれる。なんとなく小学生男子といった風情だ。ネズミのオモチャを投げてやることも効果的。うれしそうに走っていき、くわえて持ってきてくれる。「オモチャで遊んでくれる人」と認識されているんだろう。

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影千代というネコは簡単である。何もしなくても勝手に股ぐらに顔をうずめて寝る。久しぶりだろうが何だろうが関係ない。私が玄関をあけて居間にすわると同時に股に飛び込んでくる。これはあまりいないタイプのネコである。警戒心がまったくない。ジョンレノンのイマジンを胎教で聴き続けたかのような性格。

以前、ガス屋のおっさんや水道修理のおっさんが家にきたときも、他のネコは警戒してあちこちに隠れていたのに、影千代だけがおっさんの股ぐらにめがけて突進していた。影千代との関係に「維持」という意識は不要だ。股間さえあれば寄ってくる。

もっとも、満足すると勝手に去っていく。このあたりのマイペースぶりは非常にネコらしい。あくまでも股ぐら目当ての関係なのだ。人間でいえば会うなりに股ぐらをもとめてくる男のようなもので、これはシンプルに最悪だろう。

去っていった影千代にこちらから近づき、手でさわろうとしたときのムスッとした表情はすさまじい。「なんか用かよ?」という顔をされる。背を向けてゴロンと眠る影千代を見つめながら、「ねえ、私たち、どういう関係なのかな」とつぶやきたくなる。股のにおいを嗅がせるだけの関係なんて、友達に説明できないよ。

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ミケシというネコは警戒心が強く、ひさしぶりに会った私を疑わしそうな顔で見つめてくる。しかし、尻尾の付け根を指でトントンすると思い出してくれる。他人行儀だったのが、途端にフニャーと甘えてくるのだ。これはメスネコの特性らしく、オスはべつによろこばないそうだ。通称「尻トン」。

同じくメスである初音も、尻をトントンしてやる必要がある。ただ、こちらはミケシよりややこしく、しばらく追いかけっこをしてやらないといけない。いきなり尻をトントンすると、ささっと逃げていくのだ。嫌がっているわけではない。すこし離れたところに逃げてから、こちらをくるっと振り返る。「来ないの?」ということである。

なので、まずはさんざん室内を追いかけまわし、「僕は本当に君の尻をトントンしたいんだ」と納得させてやる必要がある。誰の尻でもいいんじゃない、そんな軽薄な男だと思ってほしくない、君なんだ、君の尻だからトントンしたいんだ、と態度で示さねばならない。さらに、人間が本気で追いかけるとすぐに追いついてしまうため、小走りで初音との距離を調整しつつ、同時に必死感も演出せねばならない。

これを続けていると、最終的に、初音は押入れの奥にかくれる。私も追いかけて押入れに入る。そして暗がりのなか、他のネコたちからは見えないところで、こっそりと尻をトントンしてやる。この段階でようやく頭をこすりつけて甘えてくる。毎回、これをやる必要がある。ものすごく大変な女である。このネコにはaikoを聴く権利がある。

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このあいだ世話をしに帰ったとき、ミケシの尻をトントンしていて、ふっと視線を感じた。背後を見ると、初音がじーっとこちらを見つめていた。あれは非常にaiko的な状況だった。あたし(初音)はあなた(飼い主)を見ているが、あなた(飼い主)はあの子(ミケシ)を見ている。ネコの世界にもaikoはいるのだ。

もっとも、初音は自分が構ってもらえないと様々な方法で不満をアピールするんだが、そこにaiko感はない。飼い主の布団でいきなり放尿したりする。aikoリスナーを代表して言わせてもらうと、こんな行動はaiko的世界に登録されておりません。

ある意味かしこいとも言えるが、初音は飼い主の嫌がることを的確に把握しているため、嫌がらせのクオリティが非常に高い。眠っていた時、枕から10センチのところにゲボを吐かれたこともある。「次は顔だ」と言われた気がした。冷徹な殺し屋のやりかたじゃないか。

台所のシンクにうんこされたこともある。食事と排泄という、人間が切り離したがる二つを的確に結びつけてくるのだ。こう考えると、やはりネコはネコ、人間は人間という気もしますね。いくらなんでも、彼氏に構ってほしくてシンクにうんこする女いないでしょ。

精神が肉体を凌駕しちゃいました

筋トレをはじめて最初の一週間に失敗した。しゃにむにダンベルを持ち上げていた。文字にすれば「うおおおおおお!」という感じ。非常に興奮していた。とても鼻息が荒かった。そして数日、いやな痛みが残る。心地よい筋肉痛ではなく、筋肉がズタズタになったような不快感。やりすぎだったんだろう。

以前から思っていたが、久しぶりに筋トレをしたとき、たいてい、やる気がみなぎりすぎて失敗している。やる気が持続しないんじゃなく、「突然やる気になりすぎる」のである。それで過剰にトレーニングし、身体を痛め、次のトレーニングができなくなり、習慣として根づく前にやめてしまう。

運動不足の状態でとつぜん激しい運動をすると、アドレナリンだか何だか知らないが、とにかくそういうものがドバッと出て、気分がとてつもなく高揚し、「今の俺は誰にも止められないッ!」と確信するんだが、止めてもらったほうがいいんだろう。絶対に止めてもらったほうがいい。トレーナーがいると、こういうときに止めてくれるのかもしれない。あんた身体こわしますよ、って。

中学生の時、『るろうに剣心』というマンガで、「精神が肉体を凌駕しはじめたか……」という表現をみた。そこでは、怒りと憎しみによって感覚が麻痺し、血まみれのまま平然と戦い続けるキャラクターが描かれていた。あの場面が大好きだった。俺だって、俺だって精神が肉体を凌駕した状態になってみたい!

しかし、貧弱な肉体しか持たない私のほうが、簡単に精神が肉体を凌駕しちゃうんじゃないか。興奮しながらダンベルを持ちあげるアレ、まさに「精神が肉体を凌駕した状態」だろう。ぜんぜん思ってたのとちがう。もっとかっこいいものだと思ってた。「うおおおおお!」とダンベルを持ちあげる私をみて、「精神が肉体を凌駕しはじめたか……」とつぶやくやつはいるのか。

あのマンガでは、限界をこえて戦った後、時間差で肉体に反動がきて、はげしく嘔吐していた。数年前、もっとも運動不足だった頃、私はひさしぶりに自転車をこいでブックオフに行き、帰宅直後に嘔吐したことがある。杉松に「よ、よわ……」と言われていた。あれもまた精神が肉体を凌駕した状態な気がしてきたが、こんなもん、何でもありじゃないか。おちょこのような肉体。すこしの水でどばどば溢れてしまう。

その後、負荷をかけすぎないように意識して筋トレを再開した。三ヶ月ほど続いているが、やる気はみなぎっていない。淡々とやっている。肉体はそれなりに変化している。なるほど、と思った。やる気、べつに要らないじゃん。この発見は新鮮だった。「誰にも止められないッ!」とか思う必要はなかったのか。

なにかを継続するために大きな興奮は必要ではなく、それどころか、長期的には邪魔にすらなるんだろう。そもそも、どれだけ身体を鍛えようが、タンクローリーと相撲をとれば死ぬ。淡々とやりましょう。